喫茶「小古庵」。午後の店内は、客がまばらで、柱時計の針が進む音以外、空気が止まっていた。テーブルの上には、氷の溶けかけたアイスティーと、緑色のメロンソーダ。ひなは文庫本に目を落とし、馬楼はストローをくわえて天井を仰いでいる。
「でね、俺は思ったわけよ。酔っ払いの演技ってのは、酔ってちゃできねぇと」
馬楼が、ストローをくわえたまま、器用に唇の端だけで喋る。赤いオーバーオールが、落ち着いた店内で警告色のように浮いていた。
ひなは、読みかけの文庫本に視線を落としたまま、アイスティーの結露を指先でなぞった。
「……はいはい。それで?」
「シラフで泥酔する。これこそが芸の極意だとね。だから俺は、昨日の真昼間、一滴も飲まずに『千鳥足』の稽古をしてたんだ。商店街の真ん中で」
ひなの手が止まる。嫌な予感しかしない。
「……具体的には?」
「右足を出して、左足を絡める。電柱に肩をぶつけて、謝る。マンホールにつまずいて、空を見上げる。これを完璧なリズムで繰り返しながら、ココアン銀座を縦断した」
馬楼は得意げに鼻を鳴らす。
「そしたらさ、交番から若いのがふたり飛び出してきてね。『こんにちは』『ちょっといいですか』って両脇抱えられたんだよ。俺は言ったね。『離せ、俺は芸の求道者だ! 血中アルコール濃度はゼロだ!』って」
「で、どうなったの」
「検査されたよ。息を吹きかけろって。結果は、見事なゼロ・パーセント! 俺の運気並みだ」
「……そ、そう」
「そいつが真顔で言ったね。『シラフでこれは、もっとタチが悪いです。ご家族呼びますか?』って。……屈辱だね。俺の演技がリアルすぎた弊害だ」
馬楼は悔しそうにメロンソーダを吸い込み、ズズズと下品な音をさせた。ひなは、深く、深くため息をついた。
「……馬楼さん。それ、演技が上手かったんじゃなくて、単に不審者としての完成度が高かっただけだと思います」
「手厳しいねえ、お雛様は」
その時、店内の壁掛けテレビから、アナウンサーの「一堂注目!」っぽい声が流れてきた。
『――昨夜の欧州リーグ、奇跡の瞬間です! 後半ロスタイム、この位置からのオーバーヘッド!』
馬楼とひなは、同時に顔を上げた。
画面の中、スタジアムの熱狂が、音量を絞られたスピーカーから漏れ出してくる。スローモーションのリプレイ映像。重力を無視したかのような跳躍から放たれたボールが、美しい弧を描いてゴールネットを揺らした。
『まさに神業! 天才の閃きが、チームを救いました!』
アナウンサーが興奮気味にまくし立てる。
ひなは、グラスの中の氷が溶けていくのをぼんやりと見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……天才って、どこの世界にでもいるのね」
その言葉には、羨望と、諦めと、ほんの少しの棘が含まれていた。
馬楼が、ストローから口を離し、真面目腐った顔で画面を指さした。
「わかっちゃいないね、ひな」
「何が?」
「あれは『閃き』なんかじゃねえよ。あの足の角度、身体のひねり。あれは、日頃の血の滲むような練習が、無意識に出ただけだ。一瞬の奇跡に見えるものの裏には、何万回もの泥臭い反復があるんだよ。……俺の千鳥足と同じでな」
最後の一言は余計だったが、馬楼の眼差しは、珍しく真剣だった。ひなは、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
(……そうかも。私たちも、そうやって積み上げてる……)
ひなは、鍵盤を叩き続けた右手の先を、相棒の左手で包み込んだ。
その時だった。
「でも、馬楼さん」
カウンターの奥から、お盆を持った志乃ママが、音もなく現れた。
「え?」
志乃は、穏やかな微笑みを二人に向けて、こう言った。
「地球の裏側の、誰も見てない原っぱでね。小さな子どもが、裸足で、いまのシュートよりもっと、もっとすごいシュートを決めてるかもしれないわよ」
「……」
「……」
時が止まった。
馬楼が、口を半開きにする。
「……もっと、もっと?」
「そう。カメラもなくて、観客もいなくて、記録にも残らない。でも、世界一美しいシュート」
志乃は詩を紡ぐようにそう言うと、二人の前のコップに水を継ぎ足すと、奥へと消えていった。
残されたのは、圧倒的な「虚無」だった。馬楼の「血の滲むような練習論」が、音を立てて崩れ去っていく。
――誰も見ていない原っぱの、名もなき天才。それに比べれば、俺たちの練習なんて、千鳥足の稽古なんて、メロンソーダの上のサクランボほどの意味もないのではないか。
馬楼が、言葉を失って固まっている。練習の無駄さ、努力の儚さを、これ以上ないほど詩的に、残酷に突きつけられた顔だ。ひなは、そんな馬楼の横顔を見て、小さく息を吸い込んだ。そして、一言だけ言った。
「……それでも」
短く、低い声だった。
馬楼が、ハッとしてひなを見る。ひなの瞳には、迷いではない、静かな光が宿っていた。
誰が見ていなくても。世界一でなくても。
馬楼も、小さく頷いた。
「……そ、そうだよな。でもだよ。それでも、やるしかねえんだよな」
カウンターの奥で、志乃がにこにこと笑っている気配がした。
「……行くぞ」
馬楼が、急に何かに追われるように席を立った。
「え、もう?」
「ここにいたら、毒気を抜かれちまう。志乃ママの哲学は、俺には劇薬だ」
馬楼は伝票をひったくり、逃げるように会計を済ませた。
店の外に出ると、生温かい風が吹いていた。路地裏の猫が、欠伸をして通り過ぎていく。ひなは、日差しの眩しさに目を細めながら、先を歩く馬楼の姿を目で追った。
「……そうよね、馬楼さん」
「ん?」
「誰が見てなくても、世界一じゃなくても。それでも、私たちは」
ひなは、言葉に力を込めた。
弾くしかない。語るしかない。
練習という、果てしない徒労を繰り返して、その先にある何かを信じて。美しい決意の言葉が、ひなの口から紡がれようとした、その瞬間。
馬楼が、ニカッと笑って言った。
「そう、俺達にはビールがある!」
ひなの足が止まった。
「……は?」
馬楼は、ひなの反応などお構いなしに、角の酒屋を指さした。
「練習して、恥かいて、落ち込んでも、そのあとの一杯さえあれば、全部チャラだ! な! 世界一のシュートより、目の前のスーパードライだろ!」
ひなは、呆気にとられた顔で、楽しそうに小銭を探す赤い背中を見つめた。
感動的な「それでも」の着地が、そこ?
練習への決意じゃないの?
(……ほんと、この人は)
ひなは、ため息をつこうとして、やめた。
代わりに、フッと小さく笑った。
「……そうね。乾杯くらい、付き合ってあげる」
「おっ、話が分かるねえ! じゃあ、ひなさんはお茶な」
「……一本くらい、飲むわよ」
「えっ、マジで? ……あー、じゃあ、介抱の練習もしとくか」
「うるさい」
酒屋の自動ドアが開く。
「よぉ、いらっしゃい」
店主の声は、世界一のゴールを揺らす音よりも、今の二人には、ずっと大切に響いた。
了
作・千早亭小倉
●二つ目馬楼と代弾きひなの物語(Kindle版)
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