深夜二時。ココアン区のコンビニは、深海に沈んだ潜水艦のようだった。
酔酔亭馬楼は、完熟トマト色のオーバーオールという、およそ深夜の労働には不釣り合いな格好で、おにぎり棚の前にしゃがみこんでいた。
「……ひ、ふ、み、よ……」
低い声が、冷蔵棚のモーター音に混じる。
「……いつ、む、なな、や。……お、おやじ。今、何時だい」
落語の定番、『時そば』の稽古だ。勘定をごまかすために、蕎麦屋の親父に時間を問いかける重要な場面。だが、馬楼の声には、致命的な「淀み」があった。
「……ここの、一秒がなあ……」
彼は指先で、ツナマヨネーズのおにぎりの角を小突いた。ビニール包装が、カサリと不機嫌な音を立てる。
自動ドアが、乾いた音を立てて開いた。
入ってきたのは、糠森ひなだった。深夜の練習帰りだろう。背中には、重たい楽譜の詰まったリュックを背負い、目は寝不足で少し吊り上がっている。
ひなは、まっすぐにおにぎり棚へ歩み寄り、馬楼の背後で立ち止まった。
「……四の後、〇・五秒遅いです」
馬楼は、飛び上がらんばかりに驚いて、おにぎりを棚の下に落としそうになった。
「うわっ、お、おひな様。驚かさないでくれよ」
「驚いてるのは、私の耳です。そんなメチャクチャなテンポで銭を数えられたら、裏で伴奏している私の脳内オーケストラが総崩れになります」
ひなは、冷たい指先でレジカウンターをトントンと叩いた。正確な、四分音符の刻みだ。
「いいですか、馬楼さん。落語も音楽も、休符こそが雄弁なんです。あなたの『よ』と『いつ』の間には、余計な自意識というノイズが混じっている。……貸しなさい、その小銭」
「いや、いま、売り物のおにぎりを並べてる最中で……」
「いいから」
ひなは、馬楼の手から強引に、空想の銭をもぎ取った。そして、レジカウンターを鍵盤に見立てて、細い指を躍らせた。
「ひ、ふ、み、よ、いつ、む、なな、や」
それは、まるでモーツァルトのソナタのように軽やかで、かつ、一分一厘の狂いもない完璧なテンポだった。
「……あ、九だ。おやじ、今、何時だい?」
ひなが、馬楼の台詞を横取りする。その声音は、江戸の風など微塵も感じさせないが、言葉の「重さ」だけが等間隔に並んでいた。
馬楼は、呆気に取られてその指先を見つめた。
「……すげえな。おひな様、今の、メトロノームみたいだった」
「褒め言葉として受け取っておきます。代弾きをなめないでくださいね」
ひなは、ふんと鼻を鳴らすと、棚から一番高い「炙り明太子」のおにぎりを手に取った。
「今のレッスン料。これで手を打ちます」
「えっ、レッスン!? で、俺の自腹!?」
「当たり前でしょう。芸術の指導は高いんですよ」
馬楼は、トマト色の肩紐を揺らしながら、泣く泣くレジに回った。 バーコードを読み取る「ピッ」という電子音。
「……ひ、ふ、み、よ……」
馬楼は、レジを打ちながら、小声でひなのテンポをなぞってみた。
「……いつ、む、なな、や」
「あ、今のは、少しだけ良かったです」
ひなは、おにぎりの袋を受け取りながら、ほんの少しだけ、口角を上げた。
「でも、やっぱり噛みそうでしたけど」
深夜二時十五分。 店を出ていくひなの背中を見送りながら、馬楼は再びおにぎり棚の前にしゃがみこんだ。 静まり返った店内に、今度は少しだけ軽やかな、銭を数える音が響き始める。
それは、ほんの十三秒間だけ、世界と調律が合ったような、奇妙に心地よいリズムだった。
了
作・千早亭小倉
●二つ目馬楼と代弾きひなの物語(Kindle版)
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