三月の第四金曜日、午後二時四分。商店街を通り抜ける風は、まだ湿った重さを含んでいる。
糠森ひなは、重さ一・二キログラムあるラフマニノフの楽譜集を胸に抱え、早足で角を曲がった。 指先の感覚を鈍らせないために、薄手のシルクの手袋をはめている。 彼女の頭の中では、次のリハーサルで弾くべき四分音符が、正確なメトロノームの刻みとともに反復されていた。
その直後、視界の端から「熟れすぎたトマト」のような赤色が飛び込んできた。
「うおっ!?」
酔酔亭馬楼である。深夜バイト明けの彼は、トマト色のオーバーオールの肩紐を片方外したまま、あくびを噛み殺そうとして前が見えていなかった。二人の距離がゼロになるまで、コンマ三秒。
激突。
ひなの抱えていた楽譜が、アスファルトの上で扇のように広がった。重心がつんのめり、彼女の体は馬楼の胸板へと吸い込まれるように倒れ込む。馬楼は咄嗟に彼女の肩を掴もうとしたが、その指先は空を切り、二人の顔が不自然な角度で密着した。
柔らかい感触が、ひなの唇をかすめる。
馬楼の口元からは、安物のお茶と、寝不足の胃袋が発するわずかな苦い匂いがした。ひなは目を見開き、一瞬だけ呼吸が止まる。 鍵盤を叩く時の集中力とは全く別の、熱い何かが脳の裏側を逆なでした。
「……っ!」
ひなは弾かれたように身を引くと、落ちた楽譜も拾わずに、顔を耳まで真っ赤に染めて叫んだ。
「い、いまのは、ノーカンですから! 物理的な接触の事故ですから!」
言うが早いか、彼女は若武者のような足取りで、商店街の雑踏の中へと走り去っていった。翻る黒髪が、馬楼の鼻先をかすめていく。
後に残されたのは、尻もちをついた馬楼と、その光景を三メートル後ろで眺めていた氷上静だけだった。静は、手にした哲学書の栞を丁寧に挟み直すと、ゆっくりと馬楼に歩み寄った。
「馬鹿野郎さんだったかしら、あなた、大丈夫?」
静の声は、図書館の奥の静寂のように落ち着いている。
「あ、え、ああ、ええ? びっくりしたぁ。おひな様、あんなに足速かったんだな」
馬楼は、自分の唇を手の甲で無意識に拭いながら、呆然と答えた。彼の頭の中では、今起きた「事故」が、落語の『崇徳院』に出てくるような運命の出来事なのか、それとも単なるドジな失敗談なのか、整理がつかずにいた。
静は眼鏡の奥の瞳をわずかに細め、落ちた楽譜を拾い上げながら、つぶやいた。
「初めてね」
静の言わんとしたのは、「こんな出会い頭のキスなんて、見たのは初めて」という意味だ。だが、その言葉によって、馬楼の脳内にある「糠森ひなログ」は、誤った方向へ高速回転を始めた。
「初めて……? いやいやいや、そんなわけないじゃないですか」
馬楼は、自分の顎をさすりながら、まるで落語のネタの年表を繰るような手つきで空を仰いだ。
「ええと、正確に申し上げますと……。一回目は三ヶ月前の大雪の夜、あちこちって居酒屋の店先で。二回目は先月の駅のホーム、酔った彼女を支えた時。三回目は先週の木曜日、俺のバイト先のバックヤードで、彼女が棚に頭をぶつけそうになったのを……」
「馬鹿野郎さん」
「四回目は、三日前の雨宿りの時です。これはちょっと、カウントしていいか微妙な『かすり』具合でしたが。で、今日のが五回目。……あ、でも彼女が『ノーカン』って言ったってことは、公式記録としては四回に戻るんですかね?」
馬楼は真面目な顔をして、指を折って数え続けている。
「……そこまで聞いてないわよ」
静は、呆れを通り越して、少しだけ背筋に寒いものを感じた。 彼は、ひなとの「接触」を、まるで寄席の出番の回数か、あるいは賞味期限でもチェックするかのように、日付とシチュエーション込みで完璧に記憶していた。
「ひなさんが『ノーカン』って言ったのは、単に恥ずかしかったからでしょう。それなのに、あなたときたら……」
「だって、記録は正確じゃないと。おひな様にとっては『不可抗力』でも、俺の唇のセンサーによれば、今日のが一番、彼女の方から圧力がかかってましたよ。ええと、〇・三ニュートンくらいは……」
「単位!」
静は短く切り捨てると、ひなが消えていった出口を見つめた。
「今さら一回分を消したところで、何が変わるっていうのかしら。まあ、女心といえば可愛らしいけれど、生際が悪いだけのようにも」
静は勝手にひなの心内を分析し、馬楼のほうは、まだ「五回目か、四回目か」の判定について、トマト色のオーバーオールのポケットに手を突っ込み、ぶつぶつと独り言を漏らしている。
「あんず飴の味」
馬楼の呟きに、静は再び寒気を感じた。ここあんの商店街の春は、理屈と記録では割り切れない、ひどく不器用な熱を帯び始めていた。
了
作・千早亭小倉
●二つ目馬楼と代弾きひなのものがたり(Kindle版)
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