お題012. 干物箱

四月、湿り気を帯びた風が、ここあん村の路地裏を通り抜けていく。築四十年。外壁のモルタルが剥がれ落ち、まるで剥製のような風情を漂わせるそのアパートの入り口には、「メゾン干物箱」と書かれた古ぼけた木看板が掲げられていた。

「何度見ても、正気を疑う名前です」

糠森ひなは、酔酔亭馬楼の部屋の万年床から五ミリほど浮きたい気分で、冷めた茶をすすった。部屋には、古い畳の匂いと、馬楼の一張羅とも言える、熟れすぎたトマト色のオーバーオールが放つ、妙な生活臭が充満している。

「いいじゃねえか、ひ、も、の、ば、こ、っとね。覚えやすくて」

馬楼は、煎餅の屑を膝に散らしながら笑った。

「ここの大家のサメじいがよ、落語の『干物箱』ってえ演目が大好きなんだ。若旦那が遊びに行くために、声色のうまい貸本屋を自分の身代わりに二階に寝かせて、親父さんを騙そうとする話でな。サメじいって、ほら、若いころはモノマネ芸人だったから。知らない? サメ田ジョウって」

「知りません」

そう即答したひなの指先が、膝の上で微かに震えていることに、馬楼は気づかなかった。

「あら、そう。で、その身代わりの善公ってのが、布団の中で若旦那のふりをして、一世一代の声色を使うんだ。親父さんに怪しまれないように、教えられた俳句をそっくりな声で返してよ」 馬楼は楽しそうに、座布団を叩いた。

「結局、途中でボロが出てバレちまうんだが、その『化けてる時間』だけは、そいつが本物の若旦那より若旦那らしいってわけだ。馬鹿だよなあ」

ひなは、馬楼のたどたどしい解説を聞きながら、窓の外の濁った空を見上げた。

(……完璧に化ける、身代わり)

主役がいない間、その椅子に座り、主役以上の密度でそこに存在する。それは単なる偽物ではない。主役という建付けを、その瞬間だけ背負うという「職人」の仕事だ。

――干物箱。

水分を抜かれ、ただの素材としての旨味だけを凝縮されたものが、暗い箱の中で出番を待っている。

「……いい名前ですね」

ひなが、空に向かうように呟いた。

「え?」

「メゾン干物箱。悪くない名前です。私にはお似合いかも」

馬楼は、煎餅を口に運ぼうとした手の動きを止め、怪訝そうにひなを覗き込んだ。

「それを言うなら、俺に似合いじゃねえの? お前、大丈夫かよ? さっきまで『生臭い』だの『乾燥肌になりそう』だの文句言ってたじゃねえか。

「言ってませんから」

「へ、それにしても、急に悟りを開いたような顔しやがって」

ひなの職業は「代弾き」ピアニストだ。本番を弾くスターのために、リハーサルで完璧な音を置く「身代わり」の専門職。正確な音を出すだけの機械であることは、何よりの誇りであり、少しの負い目であった。いや、負い目という言葉は強すぎるのだが、ちょうどいい言葉が見つからないのだ。ひなの心は、常に薄い膜が張っていた。

「なんでもありません。私が勝手に、ここの名前の資質を見出しただけです」

ひなは、いつものツンとした表情に戻り、空の湯呑みを置いた。その瞳には、先ほどまでの冷たい拒絶ではなく、どこか自分自身を許したような、柔らかな光が宿っている。

「よく分かんねえけどよ、気に入ったなら、俺の『干物箱』聞いてくかい? 若旦那が噛み噛みの人だって設定にしたら、善公の声色も噛みまくりでかまわねえんじゃねえかな?」

馬楼が膝を乗り出し、得意げに胸を叩く。その拍子に、煎餅の屑がひなのスカートに飛び散った。

「結構です。せっかくの私のいい気分が、湿気った出がらしの茶葉みたいに台無しになりそうですから」

「なんだよ、冷てえな。せっかくやる気になったのに」

「それより」

ひなは立ち上がり、鞄を肩にかけた。

「今夜は、本物の干物が食べたい気分です。居酒屋『あちこち』へ行きましょう。脂の乗った、最高に美味しいやつを」

「おっ、いいねいいね! 大賛成! まっちゃん、いい鯵を仕入れたって言ってたような」

馬楼は、ひなの心境の変化に一ミリも気づかぬまま、鼻歌まじりにトマト色のオーバーオールを衣紋掛けから外した。

「お、こっちもいい具合に干物になってる」

「もう」

二人がアパートの階段を降りる音。その足取りは、四月の少し湿った夜風を切り裂くように、軽やかだった。 ひなは一度だけ振り返り、古ぼけた「干物箱」の看板に向かって、誰にも気づかれないほど小さな微笑みを送った。

作・千早亭小倉

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*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。 *The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
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