湖畔のカフェ「シズカ」のテラス席で、リリカはイヴリン・ウォーの『一掴みの塵』を閉じた。都会的な憂鬱を気取る彼女にとって、ウォーの乾いた皮肉は最高のアクセサリーだ。
「すごく不毛な結末。コスパ悪いし、救いがないのが逆にリアルだわ」
リリカがシニカルな溜息をつくと、向かいの席でマンゴーパフェのチェリーを執拗に弄んでいた母、矢尾玲子――通称「ステキさん」が顔を上げた。
「あらやだ、リリカ。何が不毛なの? その本、とっても綺麗な装丁じゃない。それだけで『ステキ』だわ。それに気づく私のセンスが正しいってこと……でしょう?」
「ママには分からないわ。これはね、ある男が密林に捕らわれて、死ぬまで他人にディケンズの小説を朗読し続けさせられるっていう、イギリス文学史上屈指の絶望的なエンディングなの」
リリカは、母の浅薄な自己愛を刺してやるつもりで、その残酷な皮肉を説明した。文明人が、最も嫌悪する「終わりのない義務」に縛られる地獄。しかし、ステキさんは目をキラキラと輝かせ、あろうことか深く感動したように手を合わせた。
「まあ! 最高に『ステキ』なハッピーエンド!」
「……は? どこがよ」
「だって考えてもごらんなさいよ、プリンちゃん(リリカのこと)。死ぬまで自分の声を聞いてくれる観客がいて、しかも相手は逃げ出さないのよ? そのうえ、自分が何を読んでも、相手は一喜一憂してくれるんでしょう? 誰にも邪魔されない、自分だけの独演会……。それって、私がこの村に求めていた究極の支配構造だわ」
リリカは絶句した。ウォーが描いた「文明の敗北」という高度な皮肉が、母の「肥大化した自己愛」というフィルターを通した瞬間、独裁者の夢物語に変換されたのだ。
「リリカ、あなたも『皮肉』なんていう、傷つくのを怖がっている人のための言葉遊びは卒業しなさい。いいこと? 本当に強い人間はね、絶望を自分の栄養に変えちゃうの。この著者の人も、本当はこういう『王様生活』がしたかったから、こんな結末を書いたんじゃないかしら?」
母の言葉は、ウォーの知性を軽蔑とともに踏みつけ、同時に「創作という行為の根源的な欲望」を無自覚に射抜いていた。リリカは自分の読んでいた文庫本が、急にただの紙束に見えてきた。
「……ママ。そのステキ理論、論理破綻してるけど」
「あら、論理が通じないのが私の『ステキ』なところだって、静さん(ブックカフェのオーナー氷上静のこと)も言ってたわよぉ」
ステキさんは勝ち誇ったように笑い、パフェのグラスを掲げた。リリカは、洗練された冷笑が、圧倒的な厚顔無恥に敗北する瞬間を初めて目の当たりにした。
(幕)
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