【登場人物】
神崎 一樹:文芸部員。人間の心理や行動原理を分析する 。
天野 光:女子バスケ部。全肯定ガール 。
堂島 巧:文芸部員。空間分析家であり、物理法則を重視する 。
黒崎 文:文芸部部長。文学至上主義者 。
【場所】
ここあん高校(ここあん大学芸術学部 附属高度創造研究校)の文芸部室 。

(文芸部の部室。神崎一樹がプリントアウトされた原稿を読んでいる。天野光が横からのぞき込んでいる)
光「ねえ、このラスト。主人公がドアをバーンって閉めて出ていくでしょう」
一樹「ああ。文脈からして、怒っていることの表明だな」
光「私、物に当たる人、苦手だなあ」
一樹「いや、これは小説の中でのことだから。現実の暴力性とは別物だ」
堂島「(本から顔を上げずに)空間の遮断を伴う、関係性の物理的な断絶だな。ドアという境界線を用いた、非常に古典的な表現だ」
光「古典的っていうか、もうテンプレじゃない? ドアを乱暴に閉めたら怒ってる、みたいな。なんか説明的というか、まわりくどいよね。いっそ『私、怒ってるんだからね!』ってセリフでストレートに言っちゃったほうが、伝わりやすくてよくない?」
(部室の奥から、黒崎文が立ち上がる)
黒崎「駄文!」
光「ひゃっ」
黒崎「感情をそのままセリフで垂れ流すなど、文学に対する敗北だ! そんなものは小説ではない。取扱説明書だ。ブコウスキーがいつ『俺は今、すごく落ち込んでいる』などと書いた!」
光「でもさあ、無理に凝ろうとして『指先が白くなるほど拳を握りしめ』とか書くのも、ちょっと痛々しくない? 結局何が言いたいのか分からなくて、読者に伝わらなかったら意味がないじゃない。それって作り手としての負けじゃないの?」
黒崎「くっ。それは表現技術の未熟さの問題であって、説明を放棄する理由にはならない!」
一樹「光の言うことも一理ある。感情の直接的な言語化は、読者の心理モデルに対する最短のアクセスだ。『私、怒ってる』というセリフは、伝達のロスを最小限に抑え、解釈のエラー率を下げる点において極めて合理的だ」
堂島「さらに言えば、『指先が白くなる』という描写は、毛細血管の収縮による現象に過ぎない。それが怒りによるものか、極度の恐怖によるものか、あるいは単に室温が低いだけなのか、観測者には判断が難しい。文脈への依存度が高すぎる。その点、ドアの開閉による運動エネルギーは、質量と速度から怒りの度合いをジュールで正確に測定できる」
黒崎「貴様は文学を物理法則で測るな!」
光「あとさ、ドアをバーンって閉めた後、そのドア、誰が直すの?」
一樹「え?」
光「蝶番とか、歪むじゃない? ここみたいな学校の備品なら校務員さんに怒られるし、自分の家なら修理代がかかるし。直す手間とかお金のことを考えたら、怒りどころじゃなくならない?」
堂島「なるほど。盲点だった。木製ドアの質量を約十五キログラムとし、それを秒速三メートルで枠に激突させた場合、蝶番にかかる瞬間的な負荷は設計基準を大きく超える。長期的には建付けが悪くなり、隙間風の原因になるな」
一樹「行動のコストを計算せずに感情を表出させるキャラクターは、リアリティの観点から知的能力が低く見積もられるリスクがある。一時的な感情の発露のために修繕費という負債を抱え込むのは、行動原理として非合理的だ。ならば『私、怒ってる』と発声するだけのほうが、物理的および経済的コストが低く、高度な自己管理能力を示せる」
黒崎「なぜ建具の強度と修繕費用の話になっている!」
光「でしょ? だから、口で言うのが一番エコなのよ。地球にもお財布にも優しいヒロインのほうが、絶対好感度高いって」
黒崎「お前たちは文学から何を削ぎ落とそうとしているのだ! 小説はエコ活動ではない! 魂の燃焼だ! そもそも主人公は、後先を考えずにドアを破壊するほどの衝動に駆られているからこそ」
堂島「待て、部長。その論理だと、主人公は常に器物損壊罪のリスクを背負って生きることになる。仮に一日三回怒るとして、一ヶ月で九十回ドアを叩きつける。ドアの耐用年数は著しく低下し、主人公は深刻な金銭的困窮に陥る。結果として、物語は『いかにしてドアの修理代を稼ぐか』という労働文学にシフトせざるを得ない」
黒崎「シフトしない! 場面ごとの感情の爆発の話をしているのだ!」
一樹「しかし、堂島の指摘は物語の構造に重大なバグを提示している。読者は『この主人公はドアの修理代をどうやって捻出しているのか』というノイズに気を取られ、本筋の心理描写に没入できなくなる」
光「やっぱり『私、怒ってるんだから』が正解だね。これで解決!」
黒崎「解決などしていない! 貴様ら、全員表へ出ろ! ドアは静かに開けて、静かに閉めろ!」
(黒崎、机を叩いて部室を出て行こうとする)
堂島「机を叩くのも、天板へのダメージを考慮すると推奨できないな」
一樹「骨伝導による掌へのダメージも計算に入れるべきだ」
黒崎「うるさい! 駄文どもが!」
(黒崎、ドアノブに手をかけ、ゆっくりと、しかしギリギリと音を立てながら扉を開ける)
光「あ、今の開け方、蝶番に一番負担がかかるやつだ」
黒崎「っ!」
(黒崎、無言で、細心の注意を払ってそっとドアを閉めて出ていく)
一樹「あれは、怒っていることの表明だな」
堂島「ああ。しかし、建具への配慮は見事だった」
光「エコだねえ」
【幕】
作・千早亭小倉
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