午後5時3分。ここあん村の夕焼け空に、その音は響き始めた。いや、空気がある一定の周波数に置き換わったのだ。
「……始まった」
図書館の2階の窓から、菜箸千夏が見えない音に目を細める。手には、硬くなったパンの耳。
それは、赤く染まる空を渡ってくる、無機質なハミング。
ビブラートを一切排除した、精密な音叉のような響き。
湿り気のない音が、夕暮れの重たい空気の密度を、均質に塗りつぶしていく。
「だ、だめだ! これじゃあ、オノマトペにならないッ!」
芝生の上で、ここあん高校元文芸部の「オノマトペ王子」ことギオンが、ノートを抱えてのた打ち回る。彼は「歌の人」の声を言語化しようと、悪戦苦闘を続けている。今日で、3日目だ。
「キラキラ、違う、スーーー、違う違う。もっとこう、鼓膜を物理的に『押してくる』感じなんだ! ああっ、形容詞が、僕の語彙が、この硬質な透明感に弾き飛ばされる!」
千夏は冷めた目で、悶絶する高校生を見下ろした。「歌の人」に宗教的な救いや情緒を求めるのは、この村ではまだまだ青い証拠なのだ。
「無駄よ。あの人の声に意味を探すのは、時報のベルに人生相談するようなものだから」
眼下の悩める若者に、千夏が声をかける。
「でも、千夏さん! この音、まるで空間の余白を埋める透明なパテみたいじゃないですか。逢魔が時が、この声で『ただの背景』に変わっていく……。これって、これって凄まじい『ドゥワンドゥワン』案件ですよ!」
「……ただのルーティンよ」
音叉の如く響く女の声は、街に秩序を告げる無機質な規律だ。
「あと、オノマトペは基本、副詞でしょう?」
千夏はそう言い捨てて、腕時計を見た。5時10分。ハミングの音階が一段上がる。
今日もまた村のあちこちで、人々がこの音を合図に動き出していた。居酒屋「まっちゃん」では提灯が灯り、仮設住宅では鍋をかける音が方ぼうから鳴る。誰も彼女の正体を見に行こうとはしない。美しい女性だとも聞く。長い黒髪の透明感のある女性だと。だが、それを確かめないことが、この街で互いの精神的な境界線を守るための高度なマナーだった。
ふいに、ハミングが止んだ。
「ああっ、待って! 今、最高の擬音を思いつきそうだったのに!」
ギオンが叫ぶが、そこにはただ、澄んだ空気の穏やかな余白だけが残されていた。
千夏は空になったパンの袋を丸め、ポケットにねじ込んだ。
「帰って課題でもやりなさい、王子。あの音が止まったってことは、もう夕飯の時間よ」
「……『ピタッ』。あ、これだ。今の止まり方、完璧な『ピタッ』でした……」
ギオンはフラフラと立ち上がり、三丁目駅へと続く坂道をおりていった。
「ピタッって……それじゃ、あの歌に失礼でしょう?」
千夏が独りごちる。音の出どころは時計塔と言われる。もうそこに歌の人の姿はないだろう。
ただ、昨日と同じ場所に、昨日と同じ音が確かに存在したという事実だけが、千夏の心拍を規則正しく整えていた。
(了)
作・千早亭小倉
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