5時を4分過ぎた。 図書館の一階、大きな窓硝子の向こうで「三丁目の歌」が始まった 。
地域連携員の坂上節子は、貸し出しカウンターの裏で、地域住民が持ち寄った手芸用の布を丁寧に畳んでいる 。62歳の節子は、この一階ラウンジの「顔」だ 。その傍らで、中野小春が納品用の木箱をそっと置いた。中には、ラウンジの喫茶コーナーで使うために小春が修繕した、金継ぎのマグカップが三つ並んでいる 。
「あの歌、不思議ですよね。毎日、狂いもしない」
小春は、欠けた縁を繋いだ金の線を、指の腹でなぞった 。
「そうね。小春さんには、どう聞こえる?」
節子が眼鏡を上げ、手を止める。窓の外、セピア色に染まり始めた霧の中に、ハミングのような、けれど金属的な響きが満ちていく。
「……なんだか、自分を放っておいてもらえる気がして。少し、楽なの」
小春は、自分の指先を見つめた。
金継ぎは、傷に触れる作業だ。誰かの悲鳴を、陶器の破片越しに聞き、それを丁寧に繋ぎ合わせる。そこには常に、小春自身の「寄り添おう」とする意思が混じってしまう。
「普通の音楽って、もっとこう、踏み込んでくるでしょ。元気になってほしいとか、一緒に泣こうとか。そういう……湿った、期待。でも、あの人の声は、私たちを見ていない。ただの、音。雨が降るのと同じ。……だから、あの中にいる間だけは、私も、誰かのための私でいなくていい。ただの、空っぽになれる。……そういうの、贅沢だなって」
小春の声は、歌の響きに混ざって、低く、途切れがちに落ちた。
「そうね。期待されないって、この村では一番の救いかもしれないわね」
節子は小さく頷き、図鑑を閉じた。
「私たちは、どうしても意味を探してしまうから。あの声は、ただの『杭』なのよ。グラグラする地面に、毎日決まった時間に打ち込まれる、動かない杭。……残酷なくらい正確だけど、だからこそ、目印になる」
窓の外では、歌に合わせて街灯が一つ、二つと瞬き始めた。
不自然なほど等間隔な光が、霧を四角く切り取る。
村の広場では、巨大な瓦礫の横で子供たちが平然と影踏みをしている。歌が響いている限り、そこは「異常な日常」ではなく、ただの「夕暮れ」だった。
「……定規みたいだな」
小春は箱に蓋をした。
「真っ直ぐなものを隣に置くと、自分がどれだけ歪んでいるか分かる。でも、責められてる感じはしない。ただ、そこに在るだけ。……私も、あんな風に、誰にも触れずに、誰かを安心させられたらいいのに」
「小春さんは、手で触れる人よ。それでいいの」
節子が立ち上がり、給湯室へ向かう。
「さて、閉館閉館。お茶、取り替えましょうね。飲んでって。今日は、少し冷えるから」
歌が、不意に途切れた。
精密に計られた時間が終わり、世界にまた、曖昧な生活の音が戻ってくる。
小春は消えた歌の余韻を指先の金の感触で確かめていた。
「うん、お願い、節子さん」
言葉の端を少しだけ放り出すようにして、小春は笑った。
それは歌のような透明な響きではないけれど、確かに、この部屋の温度を少しだけ上げた。
(了)
作・千早亭小倉
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