掌編「眉毛」

古河書店のガラス戸の向こうで、陽光がアスファルトを焼いている。もう何時間も、客の姿はない。店主の古河佐助は、カウンターの奥、自分の尻の形にへこんだ座布団の上で、膝の文庫本から顔を上げた。文字は視界を滑っていくだけで、意味を結ばない。店の中は、死んだ紙の匂いと、黴の胞子を含んだ埃の匂いで満ちている。
ふと、カウンターの隅に置かれた小さな姿見に目が留まる。埃よけの布がずり落ち、歪んだ鏡面が、男の顔を映している。弛んだ頬の肉。目の下の、消えることのない隈。そして、頭部の輪郭を曖昧にするように伸び放題になった、密度の低い髪。最後に床屋へ行ったのは、いつだったか。思考は、澱んだ水に落とした小石のように、音もなく沈んでいった。
「……行くか」
声は、自分でも驚くほど乾いていた。錆びたブリキの「本日休業」の札を店の戸の内側にぶら下げ、閂をかける。ぎい、という低い軋みが、外の湿った空気を店内に引き込んだ。
店を出て左へ。黒ずんだ土塀が続く寺は、いつも通り静まり返っている。住職の息子は、映画監督になると言っていたがどうなったことやら。成功したという噂も、失敗したという噂も聞こえてはこない。
道の脇には、昨夜の雨を吸った紫陽花が、病的なほど青々とした花弁を広げている。角を曲がり、車一台がやっとの路地へ入る。いくつかの家は、人の住む気配がなかった。庭には背の高い雑草が茂り、割れた植木鉢が転がっている。どこかの家から、梔子の腐りかけたような甘い匂いが漂ってきた。
床屋は、そんな路地の中程にある。看板はなく、ガラスの引き戸に赤と青の捻れた縞模様のシールが貼ってあるだけだ。それが、この店がまだ終わっていないことの唯一の証明だった。
戸を引くと、ちりん、とくぐもった鈴の音がした。
「よう」
店の主人は、椅子に座って新聞を広げたまま、顔も上げない。佐助より五、六歳は年上に見える背中だ。
「ああ」
佐助も短く応え、客用の、ビニールレザーに亀裂の入った椅子に体を沈めた。白い布が、ふわりと首に巻かれる。鏡越しに、ようやく主人と目が合った。互いに、ただ疲れた初老の男の顔がそこにあるだけだ。
「いつも通りで」
「あいよ」
会話はそれきり。あとは、しゃき、しゃき、という鋏の無機質な金属音だけが続く。主人の、節くれだった指が、淡々と仕事をこなしていく。切られた髪が、ぱらぱらと白い布の上に落ちては、重力に従って床へと滑っていくのを、佐助はただ見ていた。
散髪が終わりに近づいた頃、主人が鏡越しに言った。
「眉毛、切っとくな」
佐助が何か答えるより早く、主人は小さな櫛で佐助の眉を撫で、鋏を入れた。
シャキッ。
髪を切る音とはまるで違う、硬い一本のワイヤーが断ち切られるような、鋭利な響き。その一度きりの音が、鼓膜にこびりつく。
やがて、熱い蒸しタオルが顔を覆い、視界が白く閉ざされる。他人の手に喉元を預ける、かすかな緊張。カミソリの刃が肌の上を滑る、冷たい感触。眠りとは違う、意識の麻痺。
「おわったよ」
目を開けると、鏡の中には、ひとまわり輪郭の小さくなった、見慣れない男がいた。
代金を払い、脂の染みた紙幣と、冷たい硬貨をいくつか受け取る。
「じゃあ」
「おう」
また、ちりん、と鈴が鳴った。外へ出ると、西に傾いた陽が、アスファルトのひび割れを気怠く照らしていた。湿った土の匂いに、どこかの家の換気扇から吐き出される、夕食の油の匂いが混じっていた。
むき出しになった首筋を、生ぬるい風が撫でていく。さっぱりした、というよりは、むしろ無防備になったような、頼りない心細さ。
佐助は、来た時と同じ道を、古河書店へと戻っていく。彼の影だけが、まるで別の生き物のように、長く長く、アスファルトの上を引きずられていった。

作・千早亭小倉

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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古書店「古河書店」
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