移動図書館日記(21)

これは、日記という名を借りた私の記憶。

某月某日

今日の巡回先は、普段は真木先輩が担当しているC地区の仮設団地だった。先輩が体調を崩してお休みのため、急遽、私がロマコメ号のハンドルを握ることになった。運行計画も、利用者の顔ぶれも、私が思い描いた完璧な台帳とは少し違う。その小さなズレが、一日中、心の隅でちいさなささくれのようになっていた。

現地に到着すると、私の予測をはるかに超えた「混沌」が待ち受けていた。集会所から漏れ聞こえてくる、陽気な音楽と手拍子。ミニカラオケ大会の真っ最中だった。

私の仕事は、この場所に静かな秩序をもたらすこと。その、はずだった。

「あら、今日は真木ちゃんは休みかい? みんなに紹介してやっから、中にお入りよ」

声をかけてきたのは、おそらく、真木先輩の日報に頻繁に登場するおばあちゃん。「いつも一番乗りで、時代小説を借りていかれる方」――先輩の几帳面な文字が目に浮かぶ。

私の築いたささやかな防衛線は、その屈託のない一言であっけなく突破された。あっという間に輪に引き込まれ、気づけば私の手には、まだ前の人の体温が残っているマイクが握らされていた。

その重さを手に感じつつ、どうしても外のロマコメ号が気になってそわそわした。本のコンテナ、出しっぱなしだ。誰か待っている人はいないだろうか? 私の視線が窓の方へ泳ぐのを察したのか、さっきのおばあちゃんが笑って私の腕をぽんと叩いた。

「大丈夫だって。昼間ここに残ってる連中は、みんなカラオケに来てるから」

イントロが流れ始める。誰かが気を利かせて入れてくれたのだろう、私が学生のころに流行ったポップスだった。歌い出してはみたけど、何度も何度も窓の外へ向いてしまった。まるで、分類を待つ本で溢れた閉架書庫に、一冊だけ違うジャンルの本が紛れ込んでしまったような、落ち着かない気持ち。

歌い声が自分でも驚くほどか細く震えていて恥ずかしかった。喉の奥が錆びついているみたいだ。でも、集会所の人たちが、笑いながら手拍子をしてくれる。それが、私の背中を優しく、でも確実に押してくれた。

ワンコーラスを歌い終わるころには、錆が少しずつ剥がれて、忘れていた声の出し方を思い出していくような、不思議な感覚があった。

ふと、カズオ・イシグロの『日の名残り』を思い出した。完璧な品格を追い求め、自らの感情さえも抑制し続けた執事スティーブンスが、旅の終わりで、自分が仕えた主人の本当の姿と、自らが失ったものに気づく物語。私も、完璧な司書でいようとするあまり、たくさんのものを自分の内側に閉じ込めてきたのかもしれない。声を出すこと、誰かの手拍子に合わせて体を揺らすこと、そういう、分類不能で、非効率で、けれどどうしようもなく温かい何かを。

歌い終わると、思ったよりも大きな拍手が湧き上がった。どう反応していいかわからず、私はただ、深くお辞儀をすることしかできなかった。「上手いじゃないか!」という声に顔を上げると、みんなが優しい顔で笑っている。その笑顔がまっすぐすぎて、少しだけ、泣きそうになった。

(昔の私なら、「ありがとうございます! 次はデュエットしませんか?」なんて、調子に乗ってはしゃいでいたかもしれないな……)

心の中で、忘れていたはずの自分が囁く。今の私には、ただ「……ありがとうございます」と消え入るような声で言うのが精一杯だった。

業務日報には、この出来事をどう記録すればいいのだろう。「住民との交流促進活動の一環として、地域イベントに参加」。そんな乾いた言葉では、あの手拍子の温かさも、窓の外を気にし続けた私のちいさな強迫観念も、記録できるはずがない。

この出来事は、まだ分類不能。私の心の書棚に、また一つ、行き場所の決まらない、けれど少しだけ誇らしい、そんな一冊が差し込まれた。

これは、日記という名を借りた私の記憶。

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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