これは、日記の名を借りた、中野文の記憶。
遠野の夜は、東京とは違う深い静寂に包まれている。鱒沢で過ごす最後の夜。客間に敷いた布団でくつろぎながら、ここあん村から訪ねてきてくれた菜箸千夏さんが、ふと思いついたように、私に尋ねた。
「文さんのところに、私みたいに泊まりに来たり、夜に訪ねてきたりする人は他にもいたんですか。その人たちとは、どんな話をしたんですか」
彼女の真っ直ぐな視線の奥にある、移動図書館を走らせながら村で抱えているであろう、見えない葛藤が伝わってきた。ちょうど、「わざわざ遠野まで訪ねて来てくれた千夏さんを、私は満足させられたのだろうか」などと思い上がりともいえることを考えていたところだった。私は布団のほうぼうを走り回る馬の柄を見るともなく見ながら、心の中にあるいくつかの引き出しを静かに開けてみた。
「そうね」と、慎重に言葉を選びながら口を開いた。ただし、数日前に千夏さんを遠野に迎えたときのような、壊れ物を傷つけないようにという過度な配慮はもはや不要だと思った。ふたりの間に、通い合うものを感じていたから。
私は、まず、避難を余儀なくされている方々に向けて、サロンを開こうと奔走していた支援員の話をした。彼女の行動は、すべてが相手のために良かれと思ってしたことだ。ただ、その相手の方からは「自分たちで苦労してこの避難先に溶け込んできたのに、何を今ごろになって出てきて」と反発されてしまったという。支援したいという思いが、かえって相手を見えない壁に追いつめてしまう。心から苦悩していた彼女に、その時はかける声が見つからなかった。
そしてもうひとり。東京からある町に応援に来ていた人。そこに暮らし、支援団体に雇われて、役場の仕事を手伝っていた。彼女が暗い顔で、ぽつりぽつりとつぶやいた言葉を今もよく覚えている。
「問題ははっきりと目に見えているのに、以前からいる上司は変化を望まない人で。新しく雇われた部下たちはといえば、不平をこぼすだけで改革を望まない。でもね、上司も部下も、みないい人ばかりなんです。はて、自分は何のためにこの町に来たのか。何かしなくちゃ、すべきと思っても、誰も望んでいないことなのに、何を?」
復興に向けて「もとに戻っていく」という内側に身を置くことの、どうしようもない息苦しさとしんどさ。私はその話を聞きながら、なぜか『アルジャーノンに花束を』の物語を思い出さずにはいられなかった。
「アルジャーノン?」千夏さんが小さな声を漏らした。「むかし読んだことがあります」
彼女はそう言って、自分の敷布団の端をそっと指先でなぞりながら、しばらく沈黙した。遠野の冷たい夜気が、窓の隙間からわずかに忍び込んでくる。
「あの物語の主人公は、知性を得て、世界のすべてが見えるようになったんですよね。でも、それから……」
千夏さんは言葉を一度切り、はっと何かに気づいたように、私の顔を見た。
「感覚が異常なほど研ぎ澄まされて、すべてが分かった気になっていたのに、それが少しずつあいまいに、見えなくなっていく。……私、移動図書館をやりながら、村のいろんなカオスを全部正しく分類して、コントロールしなきゃって必死だったんです。それが、いえ、それなのに、前に向かって走っているはずだったのに、いつの間にか、どっちに向かって走っているのか分からなくなって。なんだか、自分た正しいって思ってたものが、少しずつ濁っていくような、そんなしんどさが……」
彼女の言葉を、私は静かに受け止めた。すべてを見ようとして、わかろうとして、すべてを完璧に記憶し、整理しようとして、彼女の心は擦り切れてしまいそうになっている。
「最初の頃はね、すべて覚えていられる気持ちがしたの。一日一日、一分一秒、目にしたこと、聞いた言葉、全部ね」
私は天井の木目をじっと見つめながら、言葉をつないだ。
「でも、いまはね、覚えていられる気がしたことしか覚えていないわ」
千夏さんは何も言わなかったけれど、その肩がかすかに内側にすぼまるのを私は見た。伝えたいことが、彼女の心まで届いたかどうかはわからない。でも、自分事として、深く感じ取ろうとしていることは十分に伝わってきた。
世間はよく、大きな災害などにからめて「忘れない」と口を揃える。でも、実態はその一言には収まりきらない。忘れたいのに忘れられない苦しみがある。あれほど鮮明だったはずの記憶を少しずつ忘れていってしまうこともある。
「忘れていくことは、いけないことなのかな」
私が呟くと、千夏さんは「それは」という言葉を呑み込んだ。
「記憶に縛られないで生きていくことも、きっと大切なのだと思うの。でも、私たちは忘れてしまうことに怯えるでしょう? だからね、こうやって誰かに話すのかもしれない」
「話す、ですか?」
「ええ。さっき千夏さんに話したことはどちらも本当にあったことなんだけれど、口をついて出た瞬間に、それは少しだけ形を変える。そして、千夏さんとこうして共有したときに、それは『ものがたり』に変わるのよ。それは、嘘をつくのとは違う。お互いがこれから生きていくために抱える、静かな灯火に変える作業。だから、人に伝えることが大切なのだと思う。私は、そう思っている」
千夏さんは、私の顔をじっと見つめていた。その瞳に、部屋の小さな灯りがぽつんと映っている。彼女のあせりを少しでも和らげたくて、私は自分の引き出しから、古い記憶をひとつ、そっと取り出してみた。
「私がまだボランティアを始める前、東京でペーパードライバー講習を受けていたのね。偶然」
唐突な話題に、千夏さんは少し首を傾げた。
「で、その講習期間中に、あの震災が起きたの。私についてくれていた教官が宮城出身の人でね、狭い車内は、これから被災地へ向かおうとする私へのブリーフィングの場みたいになったの。その人がね、私にこう言ったのよ。あせって急ぐのではなく、時間を稼ぎなさい、って」
「時間を稼ぐ……ですか?」
「そう。もちろん、運転の話よ。ハンドルを握ってパニックになりそうになったら、とにかく時間を稼ぐの。その間にどうすればいいか、やることが見えてくる。それが事故を防ぐんだって。ねえ、運転以外も同じだと思わない? 私はね、現場でどう振る舞えばいいか分からなくなって立ちすくんだ時、いつもその言葉を思い出していた」
すべてを正そうとあわてなくていい。完璧に記憶しようとあせらなくていい。時間が過ぎていくことに身を委ね、時間を稼ぎながら、ただ目の前の人と「ものがたり」を分け合えばいい。その教えは、いまも私の小さなお守りだった。
(息は口から静かに吐く。吐いただけの空気が鼻から静かに入ってくる)
私はゆっくりと、いつものおまじないをした。
窓の外の暗闇を見上げると、遠野の冷たい空気が、私たちが抱える答えの出ない問いを、ただ静かに包み込んでくれているような気がした。
これは、日記の名を借りた、中野文の記憶。
中野文
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