これは、日記という名を借りた私の記憶。
某月某日
――業務日報。あの、決められた枠の中に、一日のすべてを押し込める作業が、昔からどうしようもなく苦手だ。
貸出冊数:105冊。
巡回ステーション:4ヶ所。
新規登録者数:2名。
こういう、数字で埋められる欄はいい。むしろ好きだ。数字は嘘をつかない。1は 1であり、2になることはない。完璧な秩序。私が世界に求めてやまないもの。そこには感情の入り込む隙間も、解釈の揺らぎもないから。
問題は、その下にある「特記事項」や「所感」の、あの広大な空白だ。
高島副館長に、静かな声で「君の日報は、ポエムだな」と言われたのは、いつだったか。あの時の、私の背骨を冷たい定規でなぞられたような感覚を、今も覚えている。
――ポエム。
『分類:詩。韻律やイメージを用いて、感情や情景を表現する文学形式』
『対義語:散文。日報』
……やはり、分類コードが根本的に間違っている。
いつもは綿あめみたいにふわふわしている真木先輩でさえ、驚くほど「業務日報」らしい報告書を手早く作成しているというのに。私のものは、「とりとめがない」と言われてしまう。自分では、伝えるべき「事実」を書いているつもりなのに。
たとえば、「ひだまりステーションで、新しく登録に来たタカハシさん(8)が、目を輝かせて『恐竜の図鑑、次はいつ来る?』と尋ねた」という事実。
これを、どう書けば「ポエム」ではなくなるんだろう。
「利用者(男・8歳)より、次回配本リクエスト(種別:恐竜図鑑)あり。児童の知的好奇心の高まりが観察された」
……これだろうか。確かに乾いていて、秩序立っている。でも、あの時の、男の子の指先が興奮で微かに震えていたことや、ロマコメ号を見上げる瞳に映っていた午後の雲の形まで、全部こぼれ落ちてしまう。あの日、あの場所で、本と人とが触れ合った瞬間にだけ灯る、小さなランプの光のようなもの、それは伝えなくていいのだろうか。
同僚の鈴木美桜さんから言われたことがある。
「千夏さんって、数字が好きじゃないですか。それだったら、所感の欄も数字っぽく書けばいいのに」
確かにそうなのだ。それでも、「知的好奇心の高まり」と書けない私がいる。
アレは、目に見えるものをすべて奪っていった。だから私は、目に見えないものを、失われる前に書き留めておきたいのかもしれない。それが、私の日報を「ポエム」にしている原因なのだとしたら。
副館長、すみません。私には、あの男の子の震える指先を、「知的好奇心の高まり」というラベルの貼られた索引カードに、分類することができそうにありません。
……とはいえ、「ポエム」と評されるのは、司書として、やはりどこか居心地が悪い。明日からは、もう少し……事実と情緒の間に、仕切り線を引く努力をしてみよう。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
![[公式]千早亭小倉の世界 | ここあん村案内所](https://atelier-cocoan.com/wp-content/uploads/2026/01/tops2.jpg)
