これは、日記という名を借りた私の記憶。
某月某日
図書館の閉架書庫は、NDC(日本十進分類法)という完璧な秩序に守られた、私にとって一番大切な場所。ひんやりとした空気が、私の強張った思考をいつも少しだけ、解きほぐしてくれる。
今日、一番奥にある、郷土資料の分類(NDC 291)の棚と、冷たいコンクリートの壁とのわずかな隙間に、何かが挟まっているのを見つけた。埃をかぶった、木製の額縁のようなもの。私の頭の中にある管理台帳のリストには、こんなものはなかったはずだ。イレギュラーな事象に少しどきどきした。
そっと、埃を立てないように引きずり出すと、それは古い標語の額だった。陽に焼けて褪せた紙の上に、けれど、力強い筆文字の言葉が並んでいる。
「朝のあいさつは元気に」
「あいさつは自分からすすんで」
あいさつに関する標語ばかりが、五つ。
初めて見た。私が入職する前の図書館には、これが壁に飾られていたのだろうか。それが、なぜ、こんな誰も気づかないような場所に、押し込めるように。
ふと、新美南吉の『おぢいさんのランプ』の物語を思い出した。かつては村の夜道をたった一人で照らしていた、あの古い石油ランプ。でも、電灯という新しい、もっと効率的で明るい光が現れると、ランプはもう無用なものとして、隅に追いやられてしまった。
この標語の額も、同じなのかもしれない。
以前は、この図書館のどこか……例えば、児童書コーナーの壁にでもかけられていて、訪れる人たちの心をそこから照らす、ささやかな光だったのかもしれない。「元気に」「自分から」という、指針。
その「元気さ」は、いつからかこの場所にそぐわなくなったのだろうか。
……ああ、そうか。「あのこと」の後だ。
避難所となった、この図書館。床に敷き詰められた毛布と、不安と疲労が混じり合った、重たい空気。あの薄暗がりの中で、私たちはただ息を潜め、秩序がこれ以上崩れないよう、必死で防衛線を張ることしかできなかった。
『秩序を乱すな』
高島副館長の張り詰めた声が耳に蘇る。あの空気の中で、「元気に」なんて、確かに誰も言い出せなかった。
すべて、想像でしかない。なぜ、戻さなかったのだろう。それも、わからない。
そっと額を元の本棚の裏に戻す。私には、まだ、この標語を分類する場所が見つからない。私の心の書棚の、どこにも。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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