これは、日記という名を借りた私の記憶。
某月某日
ロマコメ号は、今日もいつもの巡回ルートを走る。仮設団地の集会所前。オーニングを広げ、本のコンテナを分類順に並べる、完璧なはずの秩序。私の仕事は、この揺るぎない小さな座標軸を、人々の日常にそっと置くこと。
そこへ、見慣れない男性が一人、少し遠慮がちに近づいてきた。いつも来てくださるお顔とは違う。私の頭の中の索引カードが、新しい利用者のための空白のページを開く。
「あのう」と、男性は言った。「ここの団地の者ではないし、俺自体は『アレ』で大した被害も受けてないんだけど……」
その前置きに、私の思考が一瞬停止する。
『分類:利用者』
『属性:非該当……?』
私の運行計画では、この場所は「仮設団地ステーション」。その秩序から、彼は逸脱している……?
「でも、ここあん村の住民だから、のぞいてみたんだ。前から気になっててね。俺も、借りていいの?」
その、あまりに当たり前の一言に、私は胸を突かれた。そうだ。私は、いつの間にか、無意識のうちに、人々を分類してしまっていた。「仮設住宅の人」「復興住宅に移った人」「もともとの家に住んでいる人」……。
「あのこと」は、全ての境界線を破壊し、私たちみなを「被災者」という巨大な無秩序の中に放り込んだ。だから私は、必死で新しい分類を作り直し、秩序を取り戻そうとしていた。でも、その私が作った分類棚こそが、新しい見えない壁になっていたのかもしれない。
ふと、アーシュラ・K・ル=グウィンの『闇の左手』を思い出した。あの物語の主人公は、「男/女」という私たちの持つ根本的な分類が存在しない星で、戸惑いながらも、ただ「人間」として相手を理解しようとしていく。 私も同じだ。「仮設」か「それ以外」かなんていうラベルを剥がしたら、そこにいるのは、同じ「ここあん村」という場所で今を生きる、ただの「人」なんだ。
ロマコメ号は「ここあん村立図書館」の車。村の住民なら、誰だって。当たり前のこと。その当たり前のことが、私の完璧なはずの秩序を、根底から揺さぶる。
「……もちろんです。ここあん村の方なら、どなたでも」
喉の奥で、忘れていた笑い声の出し方を思い出せそう。あと少しのところで、今日もそれは逃げていってしまった。私はただ、新しい利用カードを取り出しながら、そう答えるのが精一杯だった。
私の分類棚を、作り直さなければ。この村が変わり続けていくように、もっと大きく、柔軟に。この男性の訪問は、そのための、分類不能で、けれどとても大切な「できごと」だ。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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