これは、日記という名を借りた私の記憶。
某月某日
今日の巡回先は、克枯地区の仮設商店街の近く。
ロマコメ号の準備をしていると、商店街会長の郷田さんと、居酒屋「あちち」の店主、鉄瓶鉄男さんの話し声が聞こえてきた。豪快な笑い声が、乾いた空気を震わせている。
「鉄男は俺より5コ下だろ? あれは、俺が中学の時だから、お前はまだ鼻垂らしてたころだな
「またその話ですか? 先輩、勘弁してくれよ」
70代と60代の男性が、まるで部活帰りの学生のような口調で笑い合っている。
ここあん村で暮らしていると、この「コ」という単位をよく耳にする。「1コ上」「2コ下」。それは単なる数ではない。学年という、絶対的なヒエラルキーを示す単位だ。
私の頭の中の索引カードが、習慣的に分類を試みる。
『分類:NDC 361.4(社会階層)』『キーワード:年功序列、地域社会』……。
けれど、目の前の光景は、そんな社会学用語の冷たさとは無縁だった。何十年経っても、先輩は先輩で、後輩は後輩。
それは私が図書館で守ろうとしている「規律」よりも、もっと原始的で、強固な秩序だ。どれだけ偉くなっても、あるいは「あのこと」で家や店を失って環境が激変しても、この関係性だけは決して揺らぐことがない。
ふと、川上弘美さんの『センセイの鞄』を思い出した。ツキコさんが、どれだけ歳を重ねて二人の距離が縮まっても、頑なに相手を「センセイ」と呼び続けたあの感じ。変わらない呼称の中にこそ、積み重ねてきた時間と敬意が封じ込められているのだ。
郷田さんと鉄男さんの間の「5コ違い」も、きっとそれと同じなのだろう。一緒に大きくなって、同じ景色を見て、同じだけ歳を取った。その膨大な時間の蓄積が、「5コ」「先輩、後輩」という短い言葉の中に圧縮されている。
最近、復興の会議や報告書でよく目にする「コミュニティづくり」という言葉。私も業務日報で使いそうになる便利な言葉だけれど、今日はその言葉が急に頼りなく、軽く感じられた。
彼らの間にある、この濃密で、煩わしくて、でも切れない関係性は、誰かが計画して「つくる」ようなものじゃない。長い時間をかけて、土地の養分を吸って、勝手に根を張ってしまった大樹のようなものだ。私の仕事は、本という座標軸を置くことだけれど、彼らはもう、お互いがお互いの座標軸になっている。
「おう、図書館のねえちゃん、今日も精が出るな!」
郷田さんが私に気づいて、大きな手を振った。とっさに笑顔を作って会釈をする。喉の奥で、「郷田先輩、チーッス!」なんてふざけて返してみたい衝動が微かに湧いたけれど、それは音になる前に消えた。今の私には、彼らのその濃密な輪の外側から、憧れにも似た眩しさを感じながら、静かに本を手渡すことしかできない。この村の空気のように当たり前に存在する、縦と横のつながり。それを「コミュニティ」なんて既存のラベルで分類してしまったら、きっと大事な温度が失われてしまう。
業務日報には、なんと書けばいいのだろう。「地域住民間の、強固な紐帯を確認」。……だめだ、やっぱり味気ない。この、目に見えないけれど鋼のように強い「1コ上」「2コ下」という秩序。私の分類棚には収まらないこのあたたかい関係性を、私はただ、敬意を持って記録しておこうと思う。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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