ボストー区の夕暮れは、性急な足音と、どこかの店の換気扇から漏れる油の匂いでできている。鴨下栞は、その流れに逆らうように足を止め、一軒の店の前に立った。錆びた鉄製の扉には、店名を示すものは何もない。ただ、ペンキが剥げかけた小さなプレートに「OPEN」とだけ記されている。武功が夜ごと羽を休めるという止まり木、BAR「ボストーク」。
栞は扉に手をかけた。ずしりとした重みが、ためらいを許さない。軋むような音を立てて開いた隙間から、ひやりとした空気が流れ出てきた。外の喧騒が、分厚い壁の向こうに遠ざかる。
店内は薄暗く、カウンターだけの狭い空間だった。消毒用アルコールの匂いに混じって、古い木材と、誰かが置いていった煙草の残り香が微かに鼻をつく。客は誰もいない。カウンターの内側に、短く刈り込んだ白髪の女が一人、黙々とグラスを磨いているだけだった。左の眉を分断する一本の古い傷跡が、照明の光を受けて鈍く光る。宗方奈落。この場所の主だ。
栞が扉を閉めると、奈落はグラスを磨く手を止め、氷のような視線をこちらに向けた。
「……何か用かい?」
低い、感情の温度を感じさせない声だった。
「ぶ、武功さんは、いますか」
栞は、奈落の視線をまっすぐに受け止めながら言った。奈落は答えず、ただ栞の全身を値踏みするように眺めた。その視線は、年齢や性別を通り越し、魂の芯を直接撫でるような感触があった。
「ヒヨッコが来る場所じゃない。帰れ」
「用があるのは、武功さんです」
「あいつはいない」
会話は、それきりだった。奈落は再び手元のグラスに視線を落とし、乾いた布で水滴の跡を一つ一つ消していく。その規則正しい動きだけが、店内の沈黙を支配していた。
栞は自分の鼓動が少し速くなっているのを感じながら、布製のエコバッグから、分厚い紙の束を取り出した。重さを失ったバッグが頼りなさげに栞の手首にまとわりつく。栞は、奈落に向かってまっすぐ歩み寄り、カウンターの端に紙の束をそっと置いた。
「これを、武功さんにお願いします」
原稿用紙を綴じたものだった。
奈落は、その束に一瞥をくれたが、その視線は、道端の石ころを見るかのようだ。肯定も、否定もしない。ただ、そこにモノが置かれたという事実を認識しているだけ。
奈落が無言であることにじれたように、栞がカウンターに手を伸ばす。
それを制して、奈落が一言呟いた。
「……置いていけ」
栞は、小さく頷いた。
これ以上、ここに留まる理由はない。栞は踵を返し、再び重い扉に手をかけた。外の生温かい空気が、再び肌にまとわりつく。扉が閉まる直前、栞はもう一度だけカウンターの中を振り返った。
宗方奈落は、グラスを磨く手を止めていた。そして、栞が置いた原稿の束を、ただ、じっと見つめていた。その横顔に、表情はなかった。
栞が置いていった原稿は、武功が次に店を訪れるまで、カウンターの隅に置かれたままだった。奈落はそれに触れようとはしなかった。
数日後、ふらりと現れた武功は、その原稿の束を見つけると、苦虫を噛み潰したような顔でそれをつかみ、ウィスキーのグラスを数杯のどに流し込むと、無言のまま勘定を済ませて出ていった。
一週間後。再び「ボストーク」の扉を開けた栞に、奈落は黙ってカウンターの下から紙袋を差し出した。中には彼女が置いていった原稿が入っていた。きれいに整えていたはずのページの端がばらばらに乱れている。
「あいつからだ」
奈落はそれだけ言うと、またグラスを磨き始めた。
栞は、その場で原稿の束を袋から取り出してみた。全てのページに、殴り書きのような赤字がびっしりと書き込まれている。
栞は、赤字で埋め尽くされた自分の物語を、カウンターのそばに立ち尽くしたまま読み始めた。
一ページ、また一ページと、指が震える。そこに書かれているのは、賞賛の言葉など一つもない。構成の甘さ、人物描写の浅はかさ、安易な比喩。情け容赦のない指摘が、まるで血のように紙面を汚していた。奈落は、その少女がいつ泣き出すか、あるいは怒り出すか、あるいは絶望して原稿を投げ出すか、その瞬間を待つように、視界の隅で静かに観察していた。
だが、栞の反応は、奈落の予測を静かに裏切った。
俯いていた栞の肩が、くつくつと小さく震え始める。泣いているのか、と奈落が思った瞬間、栞は「あっ」と、絞り出すような声を漏らした。そして、顔を上げた。
その瞳は、涙ではなく、狂気にも似た歓喜の光に満ちていた。頬は上気し、口元は抑えきれない笑みで歪んでいる。
「……やった」
それは、ほとんど吐息に近い快哉だった。
彼女は、罵詈雑言で埋め尽くされた原稿用紙を、まるで恋文のように胸に抱きしめた。こんなにも無様に、こんなにも徹底的に自分の作品と向き合ってくれた人間がいた。その事実が、少女の自尊心をズタズタに引き裂き、同時に、焦がれるほどに満たしていた。
栞は奈落に向き直ると、これまで見せたことのないような、満開の花のような笑顔で深々と頭を下げた。
「ありがとうございました!」
弾むような声だけを残して、彼女は店の扉を開け、夕暮れの喧騒の中へと飛び出していった。
一人残されたカウンターの中で、奈落は、磨いていたグラスを持つ手を止めていた。視線の先には、少女が消えていった扉がある。
「……気でも狂ったか」
そう低く呟いた奈落の口元に、ほんのわずか、誰にも気づかれないほどの微かな笑みが浮かんでいた。それは、呆れと、そして遠い昔に忘れてしまった何かを懐かしむような、奇妙な色をしていた。
(了)
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