環奈への手紙

アンバーの遮光瓶を棚に戻し、指先に残ったベチバーの根の土臭さを静かに吸い込む。湿った土壌の香りは、神経のささくれを均すのに都合がいい。

作業台の端に置いたタブレットの画面が、静かなアトリエの空気を白く切り取っている。植物の化学組成について調べていたはずの私の視界に、ひとつのブログのタイトルが不意に入り込んだ。

『化野環古生物学小日記』

画面をスクロールする指が、止まる。カンブリア紀の節足動物の形態について語るその文章は 、ひどく冷たく、そして精緻だった。

――化野環あだしのたまき

声に出して読んでみる。「花野」という前夫の姓から、植物の息吹を示す草冠を削ぎ落とした文字。私が決して見ようとしなかった、死骸と泥の匂いが染み付いた京都の風葬の地。 偶然の一致として片付けるには、あまりにも輪郭が重なりすぎる。ここあん大学の大学院で古生物学の地層に潜り込んでいる、二十五歳の娘の顔が浮かんだ。

私が数千の香料分子を頭の中で組み立て、人々の感情と記憶に作用する液滴を設計するのに対し、あの子は数億年の時間を石の奥底に見出そうとする。私の構築した美学という名のシステムから逃れ、実家の古書店で古い紙の饐えた匂いに包まれることを選んだ異物。私にとって彼女は、人生で唯一、完璧な調合が不可能な存在だ。

画面の向こうに広がるテキストから、不思議と匂いが立ち上ってくるように錯覚する。私が扱うような、夜明け前に摘まれたジャスミンの湿った花びらや、熟成された沈香の馥郁たるものではない。血も肉も溶解し、骨格すらも圧力で変容した、圧倒的な無機物の冷たさ。そこに記されているのは、単なる化石の観察記録なのだろうか。それとも。

私は新しい試香紙ムエットを一枚引き抜き、何も染み込ませないまま鼻先に当てた。ただの乾いた厚紙の匂いがする。

これから、この冷たい地層を少しずつ掘り起こしてみようと思う。私が決して調合することのできない、娘という解釈不能なサンプル。彼女が何を観測し、何を切り捨てているのか。声の届かない場所から、宛名のない手紙をしたためるように。この真っ白なムエットに、少しずつ私の言葉を垂らしていくことにする。

エヴァン紀子

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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ZINE「ほつれ」
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