学バス「さやかっくす」の揺れは、いつも規則性がなくて、胃のあたりを不快にさせる。窓の外には、垂直に移設された校舎が、無意味な巨大な墓標みたいに立っている。僕はリリカさんの真後ろの席から、彼女が読んでいる雑誌を覗き込んだ。ここあん高校の同人誌『ペンタ』最新号だった。

「そのページの角、少し折れてるね。その不完全さが、僕たちの今のモブキャラとしての解像度をさらに下げている気がする」
僕は手を伸ばし、指先で紙の感触を確かめながら言った。
リリカさんは、視線をこちらに向けようともしない。
「そう? あなたの存在そのものが、今は背景のレンダリングミスに見えるわ。それより、この三段目の行、読んでみて」
彼女が細い指で示したのは、ある生徒が投稿したらしい、短い散文の一節だった。
『フィリピンの語末のエスの発音のような心細さ』
僕は、その文字列を脳内のプロセッサで走らせてみる。
「……バグだね。これ、表記上のエラーだよ。カタカナで『フィリピン』って書いたら、最後は『ン』で終わる。英語の綴りの『Philippines』を想定しないと、この『エス』という属性値は読者に反映されない」
「不親切っていうより、傲慢よ」
リリカさんは、吐息のような声で付け加えた。
「特定の知識を持っていることを前提にした叙情なんて、ただの『自分に酔ったテクニック』でしかないわ。俺、いま上手いこと言ったな、っていう書き手のドヤ顔が、行間から滲み出ていて不快。プロットの奴隷以下の、語彙の奴隷」
「でも」と、僕はあえて反対の変数を投入してみる。
「音の響きそのものを、正体の掴めない不安の質感に変換する処理は、センスの塊だと思うよ。吐息が漏れるみたいな、実体のないパラメータ。それがダイレクトに刺さる感覚は、嫌いじゃないな」
「センス、ね。その言葉、この不条理な世界をハックするためのチートコードみたいで、安っぽいわ」
リリカさんは、ようやく僕の方を見た。その瞳は、凍った湖の底みたいに無機質だった。
「あなたの今の発言で、私たちの会話のフラグが一本折れた音がした。今の評価、完全に読者の好感度を意識した、三流の立ち回り」
「……フラグが折れたなら、別のルートを探すだけだよ。このバスが異界の停留所に着くまでに、この一節の『心細さ』が、僕たちのステータスにどう影響するか、計算しておかないと」
僕は、再び紙面に目を落とした。『フィリピンのエスの発音』。それは、確かにこの曖昧な放課後を定義するには実体がないが、鋭いものだった。
「ねえ、神崎君。さっきからあなたの声、少し震えてるわよ」
リリカさんが、冷たく指摘する。
「そうかな。たぶん、このバスの振動の周波数が、僕の音声データと干渉してるんだと思う」
「違うわ。さっきの一節を読んだせいで、あなたの『平穏』っていうステータスに、デバフがかかったのよ。……心細いんでしょ。フィリピンの、エスの発音みたいに」
僕は、何も答えなかった。バスは大きく揺れ、窓の外の景色が歪んだ。会話のドッジボールは、どちらのミットにも収まらないまま、床に転がって消えた。
沈黙。
エンジンの低い音だけが、解決しない物語のBGMみたいに、いつまでも続いていた。
(了)
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