掌編「槍と盾、湖畔にて」

湖を渡る風が、岸辺の葦を乾いた音で揺らしている。その微かな摩擦音に重なるように、二つの足音がブックカフェ『シズカ』へと続く小径を刻んでいた。一つは、弾むような、それでいてどこか危うい性急なリズム。もう一つは、その数歩後ろを歩く、湿った土を静かに踏みしめるような落ち着いたリズム。

古い真鍮のドアベルが、短く乾いた音を立てた。

カウンターの奥で、中野小春は静かに手を動かしていた。盆の上には、使い込まれた珈琲ミルがある。彼女は顔を上げず、ただ一定の速度でハンドルを回し、豆が砕ける硬い音を店内に響かせていた。窓際の席で、氷上静が膝の上の専門書から顔を上げる。その視線は、新しく現れた二人の侵入者を、冷徹な観測者のそれとして捉えた。

「うわあ……。ここ、ほんまもんの静寂やな」

先に足を踏み入れた娘――おはぎはんは、圧倒されたように声を漏らした。ライターとしての武装を解いた彼女は、剥き出しの好奇心を瞳に宿している。その背後から、真田まるが滑り込むように入ってきた。彼女の目は、獲物を探す猟師のように鋭く、それでいて深い慈しみを湛えて店の隅々までを検分していた。

「いらっしゃいませ」

小春が、短く、だが温度のある声で迎える。彼女は二人が持ち込んだ異質な熱量を、否定も肯定もせずに受け入れた。一人は、標的に向かって真っすぐに飛んでいく「槍」。もう一人は、その槍が折れぬよう、背後ですべての泥を引き受ける「盾」。

「先生、こんにちは! 徒然士さんから、ようお話は伺うてます!」

おはぎはんは、窓際の席に座る氷上静を見つけるなり、人懐こい笑顔で駆け寄った。その勢いに、静は手元に置いていた栞を哲学書に挟み、ゆっくりと顔を上げた。

(ああ、この子が例の……)

静の脳裏に、同じ大学で机を並べた同僚の顔が浮かぶ。本棚の背表紙の並びが数ミリずれているだけで一日中不機嫌になるような、あの潔癖で気難しい男が、よりによってこんなにも直情的で、生活の匂いを隠そうともしない若者を「恋人」に選んだ。その事実自体が、静にとってはどんな難解な文献よりも解き甲斐のある、興味深い謎であった。

「ええ、どうも。彼が、ご迷惑をかけたりしてない?」

静の問いには、元同僚としての確かな皮肉と、それを共有する者への僅かな同情が混じっていた。

「め、滅相もないです! あの方はいつだって、うちを大事にしてくれはる紳士ですから! ……あ、いえ、その、いきなり大人数で押しかけてもうて堪忍してください。まるちゃんが、どうしてもここを見てみたいって、聞かへんかったもんやから」

おはぎはんに責任を転嫁され、真田まるは「うちのせいにすんなや。それにふたりやろ?」と、呆れたように肩をすくめてみせた。その所作には、険がまったくない。まるはカウンターの隅のスツールに腰を下ろすと、小春が丁寧に布で拭き上げている、縁の少し欠けた古いカップに視線を向けた。

「ちょっとな、うちの『槍』が……」

まるはそう言うと、カフェの中をきょろきょろ見て回る、おはぎはんの背を少し目で追いながら、言葉を継いだ。

「あの『槍』が、走り回りすぎてあちこち欠けたりしてへんか、久しぶりにふたりで散歩してたついでや。それにしても、ここは、随分と、落ち着いた風が吹いとるな」

まるの言葉は、はんなりと柔らかい。だがその視線は、店の隅々にまで行き届き、空気の僅かな震えさえも読み取ろうとしているようだった。

「『ものがたり屋』、でしたか」

静が、本を閉じて会話を引き取った。

「他者の持ち込む古い物語を預かり、代わりに肌の温もりを貸し出す。物理的な境界線を切り売りしてまで、他人の何を引き受けようとしているのですか? ずいぶんと、非効率な等価交換だ」

「ちょっと、先生! 誤解せんといてください。まるちゃんはそんな、やらしい意味で――」

おはぎはんの荒くなった鼻息を、まるは白い指を一本立てて制した。

「構へんよ。指先でも手のひらでも、凍りついた誰かをほんのひととき溶かせるんなら、それは立派な商売や。泥のついた靴で歩き回って、もう一歩も動けへんようになった奴らの、冷え切った身体。そういう、誰にも見せられん物語をしばらく預かってやる場所代みたいなもん。そんだけの、お仕事や」

まるはそう言って、カウンターに置かれた冷めたほうじ茶の湯気を眺めた。その言葉には、静が好むような抽象的な響きは一切ない。ただ、長年使い込まれた道具が持つ、無骨で確かな生活の手触りだけがあった。

静の瞳の奥が、難解な数式を解く時のように細められた。論理で割り切れない「物理的な引き受け」という在り方に、彼女は静かな興味を抱いていた。

カウンターの奥では、中野小春が細い注ぎ口から、円を描くように湯を落としている。蒸気と共に焙煎された豆の深い香りが立ち上り、店内の張り詰めた空気を緩やかに溶かしていく。彼女は、静の冷徹な分析も、まるの泥臭い独白も、すべてを等しく受け入れるように、四つのカップに丁寧に珈琲を注ぎ分けた。

「私は、ここで待つだけなんです」

小春が静かに言った。カップを二人の前にそっと差し出しながら、言葉を続ける。

「壊れたり、ヒビが入ったりしたものを、隠さずに、そのままの姿で置いておけるように。欠けた部分を埋めるのではなく、その傷跡も含めて、新しい景色として眺められるまで。……あなたは背負い、私はただ、そこに在ることを――」

「あんたは、許すんやな。背負うのと、許す。そら、どっちもしんどい仕事やな」

まるは、柔らかく笑った。その笑みには、同業者に対するような、静かな敬意が混じっていた。彼女は目の前のカップを手に取ると、その深い香りを確かめるように一口味わう。

おはぎはんは、二人の間で交わされる重厚な空気を感じ取ったのか、珍しく神妙な顔で珈琲を口に運んでいた。彼女にとって、ここは「知る」場所ではなく、「還る」場所のように感じられた。

やがて、まるは「さて、行くで」と、未練を感じさせない手つきで立ち上がった。

「邪魔したな。また、どうしても捨てられんガラクタが増えたら、ここの静かな風に当てに来るわ」

その言葉を残し、二人は去っていった。おはぎはんの賑やかな声が遠ざかり、再び湖の風の音だけが戻ってくる。

ドアベルの余韻が消えた後、静は読んでいた本に視線を戻したが、その思考は別の場所を彷徨っていた。「預かる」という行為の重み。あの女は、他者の泥をその身に引き受け続け、いつか自らがその重みで沈んでしまうことを恐れないのか。

小春は、二人が座っていた場所を、丁寧に布巾で拭いている。カップが置かれていた場所には、かすかな熱が残っていた。彼女はその温もりに触れながら、何も言わずに次の豆を秤にかけた。

言葉はもう必要なかった。

湖の向こうから吹いてくる風が、窓をことり、と鳴らした。

それだけで、この場所の均衡は再び、凪のように保たれていた。

(了)

作・千早亭小倉

ブックカフェが舞台の「寄港地」シリーズ
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