地獄だった。
その一週間は、まさしく地獄という言葉が生温く感じるほどの苦行だった。
チャールズ・ブコウスキー。黒崎部長に押し付けられたその作家は、僕が今まで触れてきた「文学」の対極に位置する存在だった。品性のかけらもない言葉、救いのない日常、アルコールと暴力とセックス。美しい比喩も、感動的なプロットも、そこにはない。ただ、醜く、剥き出しの現実が、汚れた活字となって僕の脳に殴りかかってくる……知らんが、そう思えた。
「……感想文、400字詰めで10枚……」
最初の三日間、僕は一行も書けなかった。何を書けばいいのか、皆目見当もつかない。この、どうしようもない「ろくでなし」の人生の記録から、一体どんな高尚な感想を抽出しろというのか。
四日目の夜、僕は半ばヤケクソで書き始めた。感じたこと、いや、感じさせられた不快感や苛立ちを、そのまま原稿用紙に叩きつけるように。ブコウスキーの文体を真似て、わざと汚い言葉も使ってみた。そうやって書いているうちに、いつの間にか夜が明けていた。
気づけば、目の前には原稿用紙の山。数えてみると、ちょうど11枚あった。
推敲する時間も、気力もない。僕はその11枚の紙の束を、クリアファイルに滑り込ませた。これが僕の、一週間の全てだった。
そして、運命の放課後。
文芸部のドアを開けると、そこにはいつも通りの光景が広がっていた。窓際の席で、黒崎部長が本を読んでいる。今日はハードカバーの、やけに分厚い本だ。表紙には『存在と無』と書かれている。
「……あの、部長」
「来たか。締切は守るとは、凡俗にしては感心だな」
彼女は本から目を離さないまま、僕の接近を認識する。僕は震える手で、クリアファイルを彼女の机に差し出した。
スッ、と彼女の白い指が伸び、中から原稿の束を抜き取る。パラリ、と彼女はまず、その枚数を数えた。そして、ぴたりと動きを止める。
空気が、凍った。
「……おい」
「は、はい」
「私は、何枚と言った?」
「……じゅ、10枚、です」
「そうだな。10枚だ。では、これは何だ?」
彼女が人差し指でトントン、と叩いた原稿用紙の束。その厚みは、明らかに僕の罪を告発していた。
「……11枚、あります」
「そうか。君は、1から10までの数も数えられないのか。それとも、私の日本語が理解できなかったか。後者なら、まずは国語の教科書からやり直すことを推奨するが。いや、算数か。どっちがいい?」
冷たい声が、僕の罪悪感を抉る。すみません、と蚊の鳴くような声で謝る僕を無視して、彼女は溜息一つとともに、原稿の一枚目に目を落とした。
沈黙が続く。時折、彼女の眉がぴくりと動いたり、鼻で笑うような気配がしたりする。僕にとっては、判決を待つ被告人のような時間だ。心臓の音が、やけにうるさい。
やがて、彼女はぱさりと原稿を机に放り投げた。
「……なるほどな」
「ど、どうでしたか……?」
「どう、とは? 感想を聞かせろと? いいだろう。君の知能レベルに合わせて、分かりやすく評価してやる」
彼女は、すっと人差し指を立てた。
「まず、全体を通して稚拙。ブコウスキーの表層的な厭世観や悪態をなぞっているだけで、その根底にある絶望や渇望への洞察がまるでない。ただの猿真似だ」
「うっ……」
「次に、構成の破綻。感情のままに書き殴っているだけで、論理的な整合性が皆無。君の脳内が、いかに無秩序なカオスであるかを証明するだけの文章だ」
「ぐ……」
「そして何より、不快。君自身の言葉で語ることを放棄し、他人の文体を借りて悪態をつく様は、虎の威を借る狐そのもの。読んでいて、憐れみすら覚える」
的確な、あまりにも的確な駄目出しの三連撃。僕のなけなしのプライドは、粉々に砕け散った。やっぱり、ダメだったんだ。
僕は俯き、唇を噛み締めた。もう、何も言い返せない。
すると、彼女はふと、意外なことを口にした。
「……特に、この11枚目」
「え……?」
「最後の締めの一文は、君が書いた文章の中で最も陳腐で、救いようがない」
11枚目。
その言葉に、僕は顔を上げた。
彼女の目は、確かに最後のページを読んだ者の目をしていた。
「『結局、僕はブコウスキーにはなれない。なれないが、彼の渇きだけは少しだけ理解できた気がする』、か。凡俗が、十年早い。……だが」
彼女はそこで初めて、僕の目をまっすぐに見た。
その表情は、怒りでも、侮蔑でもなかった。形容しがたい、呆れと、ほんの僅かな何かが混じり合った、複雑な色をしていた。
「……10枚でやめておけば、凡作で済んだものを。わざわざ蛇足の一枚を加えて駄作に格下げするとは」
彼女は、ふっ、と息を漏らした。それは、笑ったようにも見えた。
「……本当に、馬鹿じゃないのか」
僕は、何も言えなかった。
ただ、心臓が一度だけ、大きく跳ねた。
それは罵倒のはずなのに、なぜか、今までで一番嬉しい言葉のように聞こえた。
僕の11枚目の駄文を、この人は確かに、最後まで読んでくれたのだから。
(第3話に続く)
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