掌編「検索窓の幽霊たち ――15歳のための存在論」

雨上がりの午後。ここあん湖畔に佇むブックカフェ「シズカ」の店内には、微かに湿った風と焙煎された珈琲の香りが漂っていた。

窓際の席でページを繰っていた氷上静の前に、ふらりと鴨下栞が現れた。15歳にして常盤荘の住人たちの欺瞞を観察し、小説の糧にする早熟の物語作家は、カウンターの端に腰を下ろすなり、手元のスマートフォンを退屈そうにテーブルの上で滑らせた。

「ねえ、静さん。ネットの海って、死体置き場みたいで退屈だと思わない?」

栞の冷たく深い瞳が、静をまっすぐに見つめる。

「検索窓に名前を打ち込めばなんだって出てくるけれど、調べようとしない限り、その情報は存在しないのと同じ。……たとえば、昔うちのアパートにいて、才能のなさに絶望して夜逃げしたあのつまらない詩人の今とかね。どこかで生きて息をしていることは知っているけれど、今何をしているかは知らない。調べれば、どこかの三流ウェブ記事の片隅に名前が出ているかもしれないわ。でも、私が調べなければ、私の世界にはもう存在しないも同然なの。これって、哲学的にどう説明するのかしら」

静は手元の本に栞を挟み、ゆっくりと顔を上げた。彼女の表情から冷徹な学者の険が消え、知的な興奮に唇の端がわずかに上がる。

「存在のハックね。とても正確で、面白い観測だわ」

静は取り上げたカップをソーサーに音を立てずに戻した。

「昔、アイルランドの……いえ、正確にはキルケニー州生まれの哲学者がね、似たようなことを言ったわ。『存在するとは、知覚されることである』と」

静の声は、湖面の波紋のように静かに店内に響いた。

「ネットの海に沈んでいる膨大なデータは、誰かが検索窓に文字を打ち込むまでは、ただの確率の雲に過ぎない。あなたが『検索』という行為をして初めて、その情報は無から有へと呼び出され、あなたの宇宙に物理的な輪郭を持って固定されるのよ」

「幽霊みたいなものね」と、栞はつまらなそうに鼻を鳴らした。「でも、別のことを調べていて偶然彼の名前にぶつかる確率なんて、今のネットじゃゼロに等しいわ。みんな、自分が見たいものしか見せられない仕組みの中で生きているんだから」

「その通りね。アルゴリズムは、今のあなたに関係のない過去の異物を、ノイズとして綺麗に排除してしまうから。意図を持たない限り、世界はあなたに向かって開かれない」

静はそこで言葉を区切り、窓ガラスを伝い落ちる雨粒の軌跡に一瞥をくれてから、再び栞に向き直った。

「でもね、栞ちゃん。調べれば出てくると分かっているものを、あえて調べない状態というのは、実はとても贅沢な関係性だと思わないかしら」

「贅沢?」

「ええ。かつて、フランスの……パリ生まれの哲学者が、他者のまなざしによって自分が固定されることをひどく嫌ったわ。もしあなたが、検索窓に彼の名前を打ち込んで、今の彼を『ただの会社員』や『しがないライター』といった記号に上書きしてしまったら、あなたの記憶の中にいる『かつての彼』という自由な存在は、その瞬間に死んでしまう」

静は、栞の持つ残酷なまでの観察眼を肯定するように、静かに微笑んだ。

「検索という行為は、世界を白日の下にさらけ出す『暴き』の暴力でもあるわ。だから、あえて検索窓に名前を打ち込まず、曖昧な輪郭のままにしておくことは、彼をあなたの記憶の海で永遠に自由でいさせてあげるための、残酷で美しい防衛術かもしれないわね」

「……残酷で美しい防衛術。悪くない表現ね」

栞は少しだけ満足そうに目を細めた。しかし、すぐに不満げに眉をひそめる。

「ねえ、そのアイルランドの哲学者って誰のこと? 名前を知らないと、私の小説のピースが一つ欠けたままみたいで気持ち悪いの」

静は、やれやれというように小さく息を吐き、静かに笑った。

「……名前というラベルを貼っただけで、その事象をすっかり理解した気になってしまうのは、若くて優秀な知性の悪い癖よ。言葉は世界を切り分ける便利な道具だけれど、時に本質を見えなくする目隠しにもなるのだから」

チクリと釘を刺す静の言葉に、栞は不満げに唇を尖らせる。静はそんな15歳の少女の知的好奇心を慈しむように、ゆっくりと立ち上がった。

「でも、いいわ。あなたがその幽霊たちの海を、もう少し深く覗いてみたいと言うのなら。ジョージ・バークリーの『人知原理論』。あそこの書棚の二段目にあるから、持ってきなさい。小春が新しくお茶を淹れる間に、少しだけ付き合ってあげる」

(了)

作・千早亭小倉

ブックカフェ「シズカ」を舞台にした「物語の寄港地」シリーズ

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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