
これは、日記の名を借りた、中野文の記憶。
遠野の街なかを貫く国道を、東へ向かって走っている。助手席には菜箸千夏さんが乗っている。普段はひとりでハンドルを握ることがほとんどなので、隣に誰かが座っている状況は、ひどく新鮮で不思議な感覚だった。
昨晩は、互いに積もる話もあり、このまま朝まで語り明かしてしまうのではないかという勢いで言葉を交わした。しかし、長旅の疲れが出たのだろう。二十時を過ぎた頃に千夏さんがうとうとし始めたため、夜は早々にお開きとなった。
私自身も、夜更かしをする習慣はない。特に翌日に車の運転を控えている夜は、遅くまで起きていることも、お酒を飲みすぎることもしないと固く決めている。事故を起こした経験があるわけではない。ただ、厳しい冬の凍結路を含め、この土地で車を足として生きる以上、それは自分に課した当たり前のルールだった。
一夜明けた今日の遠野は、気持ちの良い晴天に恵まれている。
「このあたりの人はね、誰の車に誰が一緒に乗っていたとか、どこに車を停めていたとか、そういうことを意外なほどよく見ているのよ」
千夏さんはそれを、居住まいを正すような真面目な顔で聞いている。その様子がおかしくて、「あ、半分冗談だから」と付け加えた。
すると千夏さんは少しだけ目元を緩め、「あ、いま私のこと、真面目だって思いましたよね」と言って笑った。昨日、駅に迎えに行った際に私が口にした「優等生」という言葉を、彼女なりに逆手にとった見事な返しだった。そのやり取りだけで、私たちの間にある見えない境界線が、昨日よりもいくらか薄らいだように感じた。
「半分冗談なら、半分は本当?」
千夏さんが小声でつぶやくのが聞こえた。
「昨日の山菜、美味しかったですね。文さん、ほんとうにお料理上手だから」
「料理じゃなくて、山菜がよかったのよ」
車窓に、赤字に白色の文字の看板が流れていく。
「あ、ジンギスカン」
目で追う千夏さんに、「今夜はジンギスカンにしようか? お店で食べてもいいし、道具を借りて家でもできるわよ」と聞いてみる。それでは、観光客のご案内になってしまうか。ふと、そんな考えが浮かんだが、窓からの風がそれを気持ちよく遠くに放り出してくれた。優等生は私のほうだ。
もともと釜石自動車道を使わず、あえてこの道を通ることにしたのは私の気まぐれだった。このまま国道を直進しても釜石へと抜けることができる。しかし、ほんの少しだけ、予定外の景色を見せたくなった。
「峠、通っていきましょう」
私は千夏さんにそう告げ、ハンドルを左へゆっくりと切った。。
これは、日記の名を借りた、中野文の記憶。
中野文
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