移動図書館日記(113)遠野編

これは、日記の名を借りた、中野文の記憶。

昨夜、千夏さんと静かに語り合った言葉の余韻が、どうやら私の心の奥にある「引き出し」の鍵を、不用意に開けてしまったらしい。

遠野の冷たい朝の空気の中で、私はふっと目を覚ました。夢の中の私は、冷たい雨に打たれていた。

灰色の空の下、まわりには何もなく、防波堤にのぼる階段は壊れたままだった。その風景の中に、一本の松がぽつんと立っている。私はただ、そこに取り残されたように立ち尽くしていた。

夢の中で、私は泣いていた。何を知っているわけでもないのに、初めて見るような光景でもないのに、急に胸が締め付けられるように痛くなって、気づけば涙がこぼれていた。松を見たからなのか、海や波を見たからなのか、それともまわりの空気全部がそうさせたのか……理由はわからない。ただ、どうしようもなく悲しく、途方に暮れていた。

息を口から静かに吐き出し、吐いただけの新鮮な空気を鼻からゆっくりと吸い込む。いつものおまじないをして、脈打つ心を落ち着かせた。

もちろん、それがただの夢ではないことを私は知っている。あれは数年前、私が実際にある場所で見た一本の松だ。何度も繰り返し、日本中に報じられた松とは別の松。そこを訪れた、あの雨の日の記憶そのものだ。

あの日、冷え切った身体と心で、たまらなくあたたかいものが欲しくなって、逃げ込むようにして入ったいつものお店で、あたたかいお味噌汁を飲んで何とかひと息ついたことまで、ありありとよみがえってくる。

朝、台所にふたりで立ち、朝ごはんの洗い物をする。

遠くで、防災無線の声が聞こえた。小さな途切れ途切れの声が反響して、よく聞こえない。

「めすう……牝馬が逃げ出したのでご注意ください」

千夏さんが、うまく音をすくいとった。二人して、顔を見合わせて笑う。

「よくあるんですか?」と、テーブルを乾拭きしている千夏さん。

「私も、初めて聞いたわ」と、私。

そのとき、千夏さんの足元に何かがぽとりと落ちた。

パスケース。数年前の日付が大きく書かれた定期券が入っていた。

「あれです。ここあん村で、あれが起こったときの。たまたま、ここあん鉄道の定期が切れるのがその日で、あのことで、帰りは電車が動かなかったから。それで、そのまま、なんとなくずっと持ってて」

千夏さんが複雑な表情を見せる。

「ずっと持ってるなんて、やっぱりおかしいですかね」

「やっぱりなんてことはないよ。それはない」

私が見た夢の風景の底にある、言葉にできない寂しさと痛みは、きっと今の千夏さんも抱えているものなのだろう。彼女もまた、ここあん村を移動図書館でめぐりながら、あの日の私のように、ふいに風景の重さに立ちすくみ、理由のない涙を流す日があるのかもしれない。

私は、家の外に停めてある車のことを考えた。あの車の話も、いつか千夏さんにしようと思う。そう考えると、話したいことがまだまだあるような、何も話していないような気になった。

自分の道へ戻っていく千夏さんのために、今必要なものはなんだろう。あの日の、あたたかいお味噌汁にかわるものは何だろう。

これは、日記の名を借りた、中野文の記憶。

中野文

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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