移動図書館日記(116)

これは、日記という名を借りた私の記憶。

某月某日。ロマコメ号のオーニングの下を、乾いた柔らかな風が通り抜けていく。

カウンターの前に立った七十代くらいの女性が、少しだけ心許ない手つきで、三冊の本を差し出した。

「たぶん、ここで借りたのよね。家族が、返しておいでって言うから」

私は、受け取った本の表紙を両手でそっと包み込んだ。「ええ、確かにお預かりしますね」と、ゆっくり返事をする。

返却されたのは、年を重ねることと、少しずつ物忘れが増えていく日々について、優しく丁寧に書かれた本だった。女性は、私の手元にある本を見つめながら、ふと何かを思い出したように、ぽつりぽつりと語り始めた。

暮らしているこの仮設団地で偶然、気の合う昔の同僚に再会したこと。その元同僚が、「あなた、これを読んだ方がいいわよ」と選んでくれたのが、いま返した三冊だったこと。

「借りた本を読んでみて、自分なりに納得できたの。これまでさんざん苦労をしてきたから、ちょっと早く忘れん坊になっちゃったんだって」

そう語る彼女の表情は、どこかほっとしているように見えた。今はここあん村の外に買い物に行くのを止められているから、この図書館の車が来てくれるのが唯一の楽しみなのだと、彼女は目を細める。私の顔をじっと見て、「あなた、なんとなく、会ったことがある気がするわ」とふんわり微笑んだ。

「でも、本を返すのを忘れてしまったらごめんなさいね。今日こうやってお話ししたことも、あなたのことも、次にお会いしたときには忘れてしまっているかもしれない」

その言葉が、私の胸の奥を静かにノックする。でも、彼女の声には、重暗い響きや、同情を引こうとするような揺らぎは少しも混じっていなかった。ただ、日向ぼっこをしているときのような、穏やかで明るい声のトーンだった。

「でもね、今日、お話を聞いてもらってとっても楽しかった。家に帰ったら、移動図書館の人とお話しして楽しかったって、家族に話します。今日一日、どんなことがあったかを話すことにしているから」

楽しかったという、その声の響きだけで、彼女の言葉の奥にある本当の温かさがまっすぐに伝わってくる。声のトーンが持つ確かな熱は、決して嘘をつかない。

「次に会ったときに、私があなたを忘れてしまっても、そういうわけだから。だから、お名前は聞かないでおくわね」

喉の奥に、あたたかい塊がゆっくりと下りていくのを感じた。記憶の輪郭がいつか曖昧になってしまうとしても、今、ここで交わした「楽しかった」という声の響きこそが、何よりも確かな真実なのだ。

ふと、いとうひろしさんの絵本『だいじょうぶ だいじょうぶ』を思い出した。こわいことや不安なことがあっても、おじいちゃんが「だいじょうぶ だいじょうぶ」と言ってくれる。その言葉の論理的な意味よりも、おじいちゃんの穏やかな声の響きそのものが、おまじないのように僕の心を包んで守ってくれる物語。

彼女の声のトーンも、きっと同じだ。忘れていくことの不安から、彼女自身と、それを見守る家族の心を「だいじょうぶ」と温めるための、確かなおまじないなのだ。

私は、「また、いつでもお話ししに来てくださいね」と、できるだけ私の声の熱も伝わるように応えた。

業務日報には、ただ返却と貸出の数字だけが並ぶ。でも、私の記憶の書棚には、今日という日の「楽しかった」という声のトーンを、決して色褪せない栞としてそっと挟んでおこう。

これは、日記という名を借りた私の記憶。

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|箱庭コントを紡ぐ 話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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