【登場人物】
矢尾 玲子:きさらぎタウンに暮らす主婦。自称「ステキさん」。あらゆる不都合を「ステキ」で上書きする現実歪曲能力の持ち主。
矢尾 リリカ:玲子の娘。ここあん高校の「冷たい最強」。母の自己愛を冷笑し、論理と効率で世界を解体する。
矢尾 太陽:リリカの弟。怖いもの知らずの小学生。対象の特徴を一度で掴む独自の観察眼を持つ。
【場面設定】
夜。きさらぎタウンの矢尾家の洗面所。大理石調の床に、ダウンライトが明るく照っている。 矢尾玲子が、最新式の高級ドライヤーで髪を乾かしながら、一定のリズムでスクワットをしている。

矢尾玲子:(鏡を見つめながら、優雅に膝を曲げ伸ばしする)イチ、ニ、ステ、キィ。とってもステ、キィ……。
矢尾リリカ:(歯ブラシを片手に洗面所へ入ってきて、足を止める)ママ、その奇妙な上下運動は何?
玲子:(スクワットを止めずに)あら、プリンちゃん。見てわからないかしら? ステキさんは今、髪の毛を乾かしながら大腿四頭筋を鍛えているの。美しさを同時進行でアップデートする、究極のタイムパフォーマンスよ。
リリカ:タイパも、ママの口から出ると、究極のひとりよがりね。
玲子:うふふ、ステキさんは、時間をいかにエレガントに重ね合わせるか勝負しているのよ。高級ドライヤーの風がシルクのように私の髪を撫で、同時に地球の重力とワルツを踊る。なんて合理的でステキなことかしら。
リリカ:(冷ややかな視線で)合理的? 重心が上下するせいで、ドライヤーの温風が当たる距離が狂ってる。熱の伝わり方が不均等になって、キューティクルの構造が乱れる。物理的にも美容的にも、完全なエラーだと思うけど?
玲子:プリンちゃんなんだから、頭も柔らかくしないと。温度の揺らぎは、髪に季節の移ろいを教えるための「風と木の詩を聴け」よ。
リリカ:竹宮惠子なのか村上春樹なのか、どっち? 時間を惜しんで二つのことを同時にやろうとするなんて、貧乏くさい!
玲子:ステキさんは、竹宮さんと村上さんといっしょに節約した5分を使って、鏡の中のステキさんを見つめる時間を増やしているのよ!(鏡を覗き込み、自分の顔に向かって)あら、ステキさん、こんばんは!
リリカ:どこの白雪姫よ。
(そこへ、パジャマ姿の太陽が洗面所に駆け込んでくる)
矢尾太陽:あ、ママ。そのスクワット、だめなヤツだ。フジンが怒ってたよ。
玲子:フジン? とこかの国の方かしら。これはベルサイユ式スクワットよ!
リリカ:情報が多い! ええと、太陽がフジンって言ってるのは、劇団かもかもの鴨下さんのことね。太陽、あの人のことエマニエル夫人って呼んでるから。で、ベルサイユ式……。ママが宮殿で暮らしていたころに学んだのね、きっと(大きくため息)。
太陽:昨日、公民館を覗いたらね、フジンが赤い髪のお姉さんに言ってたんだ。(腕を組み、鴨下留美子の重々しい口調を完璧にトレースして)「そんな浅いスクワットじゃ、絶望が伝わらないわ! 筋肉の悲鳴をもっと聞かせてちょうだいな!」
リリカ:赤い髪って、かもかもの赤井さんか、おはぎはんね。あんた、また稽古場を覗き見してたの。
玲子:絶望!? 筋肉の悲鳴!? この家にふさわしくない言葉だわ。ステキさんは大腿四頭筋をルイ王朝チックに引き締めているだけよ!
太陽:(さらに留美子になりきり、ドスを効かせて)「その膝の震えに、人間のゴーを乗せるのよ! さあ、もっと深く沈み込みなさい!」
玲子:人間の業なんて乗せてないわよ! 私が乗せているのは、未来へのステキな希望よ! イチ、ニ、ステ、キィ!(意地になって深く腰を下ろそうとするが、太ももが限界に達し、膝がプルプルと激しく震え始める)すっ……!
太陽:お姉ちゃん、ママの膝がぷるぷるしてる! ゴーが乗ってきた! フジンが褒めるヤツだ!
玲子:業じゃないわ! これは、美しさが筋肉に定着しようとしている歓喜の震えよ! プルプルじゃなくて、プルルンよ。
リリカ:(深くため息をつき、洗面台の隅で歯を磨き始める)タイパを追求した結果、洗面所で人間の業を背負わされるなんてね。不条理劇としては完璧な仕上がりだわ。
太陽:ママ、もっと絶望して!
リリカ:(歯を磨く手を止め、太陽をじっと見つめる)それにしても、あんた。
太陽:なに?
リリカ:その、対象の狂気を一度で正確にトレースする異常な観察眼。いつか何かの役には立つかもしれないわね。
太陽:役に立つ?
リリカ:さあね。でも少なくとも、洗面所で母親の安っぽい自己愛を解体するために消費するのは、才能の無駄遣いよ。あんたがその才能を役立てるべき舞台は、ここじゃないと思うわ。
玲子:そうよ、太陽。ステキさんを輝かせるために、その才能を使いなさい。
(太陽は、玲子を残し、どこかに行ってしまう。リリカの冷たい視線が支配する中、高級ドライヤーのモーター音と、玲子の膝の震えが、洗面所の空間に虚しく響き続ける)
(幕)
作・千早亭小倉





