僕と天野さんの「翻訳作業」は、想像を遥かに超える化学反応を生み出した。それはまるで、水素と酸素が出会って水になるような、必然的で、それでいて奇跡的な結合だった。
【情景パターン:夕暮れの教室】
- 僕の骨格: 『放課後の教室。西日が差し込み、机と椅子が長い影を作っている。空気中にはチョークの粉が光って見えた』
- 天野さんの心臓: 『なんか、世界が終わる五秒前、みたいな色だよね。もう誰もいなくなっちゃった、みたいな。でも、ホコリだけ、キラキラして生きてるの。ちょっと、寂しいけど、きれい』
- 僕の再構築: 『茜色の光が支配する放課後の教室は、まるで世界の終焉から五秒前の景色だった。誰もいない空間に伸びる机と椅子の長い影は墓標のようにも見え、その静寂の中を、役目を終えたチョークの粉だけが光の粒子となって、生命のように漂っていた。それは、息を呑むほど美しく、そしてどうしようもなく孤独な光景だった』
すげー。我ながら、すげー。
僕の文章から、かつてないほど「エモい」オーラが立ち上っている。これが……これが感情か。僕のロジックと天野さんの感性が掛け合わさった時、そこに「物語」が生まれるのだ。
「……神崎くん、すごい」
隣で僕のメモ帳を覗き込んでいた天野さんが、感嘆の声を漏らす。
「いや、これは君の感性だ。僕はそれを、最も効率的な文字列に変換しているに過ぎない」
そう答えながら、心の中に、自信の芽みたいなものが開きかけているのを、僕は感じていた。それも、黒崎部長の視線を(いや、こっちを見ているのかどうかわからんけど)意識して、すぐに摘み取ってしまったが。
「ううん、違うよ。私だけじゃ、こんなの、絶対に出てこないもん」
彼女はそう言うと、ふと、ペンを置いた。
「ねえ、神崎くん」
「え……、な、何?」
天野さんの声音の変化に、なぜかドキドキした。
「ちょっと、息、詰まらない?」
「べ、別に。僕は常に平常心だけど」
「うそばっかり。さっきから、ずーっと眉間にシワ寄ってる。ねえ、やっぱり、ちょっと外、出よ!」
有無を言わさず、天野さんは僕の手を掴んだ。おい、やめろ。他人の身体に無断で接触するな。僕の脳内データベースが警告を発するが、彼女の小さな手の体温が、それを黙らせる。
天野さんに連れてこられたのは、部室のすぐ上にある屋上だった。黒崎部長も堂島も、僕らの「逃避行」に何も言わなかった。錆びれたフェンスの向こうに、街のパノラマが広がっている。生暖かい風が、僕と天野さんの髪を揺らした。
「わぁーーーーー」
天野さんはフェンスに駆け寄ると、大きな声で叫んだ。そんな女の子を、僕はアニメ以外で初めて見た。天野さんが、大きく伸びをする。その姿は、外光の中で、紙人形の輪郭が透けるみたいに、儚げに見えた。
そんなメランコリックな僕の分析は、次に彼女が発した言葉によって、いかに表層的で、いかに愚かだったかを思い知らされる。
「ねえ、神崎くんはさ」
彼女は、街を見下ろしたまま、問いかけてきた。
「なんで、そんなに、正しく書こうとするの?」
「……は、正しくって?」
「だって、神崎くんの文章、すっごく正しいじゃん。文法も、言葉の選び方も、完璧。でも、なんか、全部、ガラスケースに入ってるみたいなんだよね。きれーだけど、触れない、みたいな」
それは、僕が最も触れられたくない核心だった。
僕の能力の本質。他者の感情を「仕組み」として理解し、非人間的な視点で「再構築」してしまう、呪いにも似た思考の癖。天野さんは、それを「文法」だの「言葉の選び方」だの言うが、軽々しすぎる。それは、「文法に縛られている」「言葉の選び方が、辞書から引いてきたみたい」程度の意味で言っているのだろう。間違ってはいない。ただし、近いが遠い。だからこそ、腹立たしい。僕が、創作能力という点では完全に見下していた相手に、僕の文章の根幹にある歪みを、こうも単純化された言葉で指摘されるとは。
そもそも、論理的に考えて、文法や語彙の選択を誤るほうがおかしいだろう。さらに言えばだ。僕がこだわっているのは、そんな表層的なものではなく、感情の「構造」そのものだ。喜びや悲しみが、いかなる論理回路を経て出力されるのか。そのメカニズムを分解し、最小単位の部品から組み上げ、完璧な複製を提示する。それが僕の創作の核心であり、誰にも理解されない領域のはずだった。それなのに。
「……別に。僕は、僕が書けることを書いているだけだよ」
「ふーん……」
彼女は僕の方にくるりと向き直ると、悪戯っぽく笑った。
「じゃあさ、今、この景色を見て、神崎くんが『一番最初に』思ったこと、教えてよ。ブンセキとか、サイコーチクとか、そーいうの全部なしで」
一番最初に、思ったこと? そんな思考、僕の中に存在しただろうか。僕の脳は、常に情報を収集し、分析し、最適解を出力するようにプログラムされている。インプットとアウトプットの間に、「ただ思う」というプロセスは存在しない。
「……別に、何とも。何とも、思ったりしないよ」
「えー、つまんない! ええと、つまんない!」
唇を尖らせる天野さん。語彙が乏しいのか、彼女は、「つまんない」をかぶせるだけだった。その時だ。強い風が吹いて、彼女の髪が大きく乱れた。
「わわっ」
彼女が慌てて髪を押さえる。「きゃっ」じゃないんだと僕が変に感心したのも一瞬のこと。風に煽られたスカートの裾から覗いた天野さんの白い脚に、僕は、思わず目を奪われていた。
「……今の、今の!」
天野さんが、僕を指差して叫ぶ。
「今の、ちょっと顔、赤かった! ねえ、今、何考えたの⁉」
「なっ……なにも考えていない!」
「まだ、赤いし」
「いや、それは、その、血行が促進されたことによる、単なる生理現象だ!」
「ぜーったい嘘だー! 今の、すっごい人間っぽかったよ、神崎くん!」
けらけらと笑う彼女を見て、僕は、ぐうの音も出なかった。
ガラスケースの中の展示物。その通りだ。僕は、ずっとそうやって生きてきた。だけど今、天野さんは、いや、この女は、そのガラスをいとも簡単に内側から叩き割ろうとしている。
この感情を、何と呼ぶのだろう。
論理的思考を開始する。
議題1:天野さんの指摘の妥当性検証。
観察事実:「僕の顔が赤い」「人間的である」など。
判定:事実。心拍数の上昇、体温の自覚的上昇を認める。彼女の指摘は、観測結果として正しい。
議題2:天野さんの目的の推定。
仮説A:僕をからかい、精神的優位に立つため。
仮説B:僕の創作活動を支援するため、純粋な善意。
仮説C:僕に対して、何らかの個人的好意を抱いている。
結論:判断材料不足。特に仮説Cは、論理的飛躍が甚だしい。目的の特定は保留。
議題3:僕の天野さんに対する感情の分類。
議題1が「事実」である以上、僕の内部で何らかの感情が出力されていることは確定。
候補:
(1)核心を突かれたことへの「憤り」。
(2)新たな視点を得たことへの「感謝」。
(3)異性として意識した結果生じる「欲情」。は?
……どれも違う。あるいは、全てが混ざり合った、未知の化合物か。
議題4:今後の自己の意識変化に関する未来予測。
これらのパラメータを基に、僕の思考と感情の変遷モデルを構築する。だが……できない。天野さんという変数が、僕のシステムの根幹を揺さぶっている。今後の彼女の行動、それに対する僕の反応、その相互作用がもたらすであろう結果——予測モデルが、誤差の範囲を超えて発散していく。
未来が、見えない。
分析不能。再構築不能。
ただ、心臓が、うるさい。
(第28話へ続く)



