お題014. 出来心と及第点

公園のベンチ。街灯の光の下、糠森ひなは図書館で借りた分厚い本を開いていた。

表紙には『古典落語名作選』とある。

目次に並ぶ見慣れない題名の中から、彼女が偶然開いたのは『出来心』という噺だった。冒頭、泥棒の親分が、失敗ばかりで仲間の評判も悪い子分に向かって「お前は泥棒の才能がない。足を洗って堅気になれ」と言い放つ。それに対し子分は、「せっかく親分子分の間柄になったんだ、これから心を入れ替えて精進します」とすがりつく。

ひなは、そこでページを繰る手を止めた。活字の向こうに、ピアノの師である米山共子の顔が浮かんだからだ。

「きゅうちゃん、心が足りないわ。もっと、あなたの心で奏でなきゃ」

「あらあら、きゅうちゃん。そんなに力んじゃってまあ。もっと肩の力抜かないと』

――及第点の「きゅうちゃん」。

いくら完璧に鍵盤を叩いても、師匠が求める正解には届かない。私は、音楽の世界にいるべき人間ではないのだろうか。落語に出てくる間抜けな泥棒と同じように、見込みがないから暗に突き放されているのだろうか。そう思うと、一文字も先に進めなくなってしまった。その時だ。

「なんだ、お雛様。暗いところでそんなもん読んでると、目が悪くなるぜ」

頭上から降ってきたのは、少しのんきなテノールだった。

顔を上げると、熟れすぎたトマトのような赤いオーバーオールを着た酔酔亭馬楼が立っていた。両手には、自動販売機で買ったばかりの缶ビールとペットボトルのお茶が握られている。馬楼はひなの隣に腰を下ろし、お茶のボトルを差し出した。

「お疲れぃ。で、何を読んでんだ? って言っても、広げた本の間て溺れてるように見えたけどな」

馬楼、なかなか鋭い。

「落語の本。馬楼さんの仕事のこと、少しは知っておきたいなって」

ひなはボトルを受け取り、膝の上の本に視線を落とした。

「これ、『出来心』って噺の最初なんですけど」

「ああ、泥棒のすっとこどっこいの話な。それがどうかしたか?」

「この子分、才能がないから辞めろって言われてるのに、心を入れ替えますってしがみつくじゃないですか。なんだか」

馬楼はビールの缶を傾けようとして、ピタッと手を止めた。ひなの視線を感じたのだ。もじゃもじゃの頭の奥で、自分と師匠・なまくらの顔がフラッシュバックする。「お前、落語家には向いていないのかもしれないな」という、いつか師匠に言われた言葉が耳の奥で蘇る。

馬楼が恐る恐る横目で窺うと、ひなは真剣に膝の上の本を見つめ、ひどく落ち込んだ顔で「私の、私の」とつぶやいている。馬楼は密かに安堵の息を吐き、プシュッとビールの缶を開けた。

「私、共子先生にいつも言われるんです。音楽に心が足りないって。代弾きの仕事ばかりで、自分の音も見つけられない。本当は、私にはピアニストの才能なんてないから、先生は呆れてるんじゃないかって。そう思ったら、もう」

馬楼はビールを一口飲み、小さく息を吐いた。

「ひな、ひなさんよ。お前、泥棒の下っ端と自分を一緒にすんのか?」

「構造としては同じですよ。師匠と、見込みのない弟子です」

「全然違うね。違う、全然。全然、違う。ん、どっちだ?」

「しつこいです。どっちが先でも同じです」

「あのな、本当に見込みがねえ奴には、誰もわざわざ説教なんてしねえんだよ。黙って破門にするか、ほっとくかだ」

馬楼は夜空を見上げた。きれいな月が上がっている。

「うちの師匠だってそうだ。普段は『お前なりにやればいい』なんて放任してるくせに、肝心なところでは容赦ねえ。でもな、それは俺を潰すためじゃねえんだよ。こんにゃくだ」

 「こ、こんにゃく?」

「ああ。熱々の、でっかいこんにゃくだ。壁だとぶつかったら痛えだろ? だから師匠ってのは、弟子の前に巨大な熱々こんにゃくとして立ちはだかるんだよ。ひょいっと適当にまたごうとしたら、プルプル滑るし、なにより火傷しそうに熱い。でも、弾力があるから怪我はしねえ。そういう愛の障害物なんだよ。共子先生も同じだろ」

ひなは、手元のペットボトルを両手で包み込んだ。言っている意味はまったくわからないが、必死に自分を慰めようとしてくれていることだけは伝わってきた。

「じゃあ、馬楼さんも、なまくら師匠の熱々こんにゃくの前にいるんですか?」

「俺? 俺は百年に一人の逸材だからな! こんにゃくの方から避けて通るぜ! がんも様のお通りでえってな」

馬楼が豪快に笑う。その不格好で強がりな笑い声に、ひなの胸の奥で固まっていたものが、少しだけほどけるのを感じた。

「がんもどき、好きなんですね。おぼえときます」

ひなは小さく吹き出し、落語の本を閉じた。

「ねえ、馬楼さん」

「ん?」

「この『出来心』、お願いって言ったら……あ、やめときます。忘れてください。プロの落語家さんに、こんな公園でなんて失礼ですよね」

馬楼は、少しだけ照れくさそうに頭を掻いた。

「プロ? まあ、二つ目だけどな。いいよ、やってやるよ。俺の落語で、ひなの頭でっかちの、こんがらがりを笑い飛ばしてやる」

馬楼はベンチの上で居住まいを正すと、咳払いをして語り始めた。

「えー、泥棒にも色々とございまして……」

不器用で、間も少しおかしい、いつもの馬楼の落語だ。けれど、その馬楼にしか出せない声は、ひなの心を不思議なほど穏やかにしていった。

「で、親分、あっしは心を入れ替えまして……」

3分後。馬楼が泥棒の子分を熱演している最中、隣から規則正しい寝息が聞こえてきた。馬楼が横を見ると、ひなはベンチの背もたれに深く寄りかかり、すやすやと眠っていた。

「おいおい、自由だなぁ、ひなは」

馬楼は呆れたように小さく息を吐いたが、その声は限りなく優しかった。彼は語るのをやめ、残りのビールを静かにあおって、しばらくの間、無防備なひなの寝顔を見守っていた。

作・千早亭小倉

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

ものがたり
higashiboctokをフォローする
タイトルとURLをコピーしました