【登場人物】
はるひこ:10歳の長男。世界を事実の記録としてフラットに処理する絶対的観察者。
なつひこ:5歳の次男。言葉は話さず、いつもらっらと言っている。
みちこ:母親。専業主婦。いつも疲れている。
【場面設定】
昭和47年秋。成城の家の近く、車の通る交差点へと続く道。みちこが買い物かごを提げて、なつひこと手をつないで歩いている。はるひこはその横を歩いている。
みちこ:(ため息をつきながら)今日の晩ごはん、何にしようかしら。
はるひこ:ねえ、お母さん。なっちゃんって、なんで横向きにぴょんぴょん走るんだろう?(なつひこの真似をして、横向きに走ってみるが、ドブに落ちそうになる)うわっ。
みちこ:(前を見たまま)さあねえ。カニの生まれ変わりかしらね。(あとは、独り言)あ、カニ缶もらったのがあったわね。
はるひこ:ぴょんぴょんするカニなんている?
みちこ:知らないわよ。アリだってカニだって、近くでみれば跳ねてるかもしれないじゃない。
はるひこ:アリの話なんてしてないよ。なっちゃんは、福本選手より速いかもしれないね。ね、なっちゃん。盗塁王、なっちゃん!
なつひこ:らっら、らっら。
はるひこ:お母さん、なっちゃん、ぴょんぴょん走りながら、うひゃうひゃって笑ってるんだよ。福本選手は、笑いながら盗塁しないよね。
みちこ:福本選手はどうでもいいでしょう? なつは、喜びすぎると、急に自分の頭を叩いたりするでしょう。だから、あんまり喜ばせないで。
はるひこ:(なにか考えているようだが、なにも言わない)
なつひこ:だっ。
(なつひこが、急にみちこの手をすり抜けて、横向きにぴょんぴょん飛び跳ねて走り出す)
みちこ:あ、なつ! はる、つかまえて。
なつひこ:うひゃ、うひゃ(声をあげて楽しそうに走っていく)。
はるひこ:待って、なっちゃん! 止まりなさい!(なぜかおばさん言葉)
(はるひこが走って追いかける。ようやくといった感じで、なつひこをつかまえる)
はるひこ:だめだよ、なっちゃん。危ないから。
なつひこ:うひゃあ、うひゃあ(うれしそうに笑っている)。
はるひこ:楽しそうなのに。(みちこのほうに振り返り)ねえ、おかあさん、なっちゃん喜んでる。
(なつひこ、はるひこの手を強く振り払って、また横向きに走り出す)
なつひこ:うひゃあ!
はるひこ:あ、待って! なっちゃん。
みちこ:(その場で何か言っているが、遠くて聞こえない)
(なつひこが、先の大きな交差点に向かってものすごい速さで跳ねていく。交差点に、牛乳を積んだトラックが入ってくる)
はるひこ:なっちゃん、止まって。信号、信号だって!
(なつひこは、横断歩道のギリギリ手前で、ピタッと止まる。目の前をトラックが通り過ぎる)
なつひこ:らっら、らっら。うひゃあ。
(はるひこが息を切らして追いつく)
はるひこ:なっちゃん、だめだって(珍しく真剣な怒り顔)。
(なつひこは、はるひこと目が合うが、その顔に感情は読み取れない)
(ようやく、みちこがやってくる。走って来てはいないが息があがっている)
みちこ:だから、つかまえてなさいって。
(なつひこは、耳元で指をシャリシャリこすり合わせながらにやにやしている)
はるひこ:あひゃ、あひゃ(小さい声でなつひこの笑い声を真似ながら、なつひこをくすぐる)。
みちこ:(かすれ声)やめなさい。(みちこ、なつひこの手をぎゅっとつかむ)
(なつひこ、少しいやそうに手をほどこうとするが、すぐにあきらめる。はるひこ、あとから、ぴょんぴょん横に走ってついていくが、はるひこもすぐにあきらめて、とぼとぼ歩き出す)
(幕)
なつひこの「ぴょんぴょん走り」について
なつひこの一風変わった走り方は、マダガスカル島に生息する「シファカ」というキツネザルの移動方法によく似ています。しかし、物語の舞台である昭和47年(1972年)当時、この猿の存在は一般の日本人にほとんど知られていませんでした。一部の専門的な図鑑には掲載されていたものの、テレビなどでその独特な「横跳び」の映像が放映されるのはずっと未来のことであり、動く姿を見る機会がなかったためです。
なお、シファカの横跳びとなつひこの走り方には、生物学的な関係はありません。シファカは「骨盤や関節の構造上、前を向いて歩くことができない」という骨格の制限によるものです。一方でなつひこの走りは、脳の感覚(前庭感覚や視覚など)を満たすために本能的に行っているものであり、いわば「脳が喜びを感じ、自分の心を落ち着かせるためのセルフケア」のような行動と言われます。
これもまた、昭和47年頃の日本の医療や教育現場ではまだ深く認識されていなかったようです。当時はその脳の仕組みが理解されず、周囲からは単に「やめさせるべき問題行動」「奇異な行動」として厳しく制限されることが多かった時代背景があります。
※不正確な情報の場合があります。
作・千早亭小倉



