【登場人物】
はるひこ:10歳の長男。左利きで国語辞典の例文を読むのが好き。
なつひこ:5歳の次男。言葉は話さず、耳元で指をこすり合わせる。
まさよし:父親。弁護士。いつも不機嫌で頭から湯気が出ている。
みちこ:母親。専業主婦。ソファに背中を沈めている。
【場面設定】
昭和47年の秋。世田谷区砧のはるひこ家の居間。みちこはソファで雑誌を顔に乗せて寝そべっている。なつひこは床に座り、十数本の白いレンゲを等間隔に並べている。はるひこは床に腹ばいになり、国語辞典をぱらぱらめくっている。
はるひこ:(国語辞典から顔を上げて)ねえ、お母さん。おんぱりそって何?
みちこ:(雑誌の下からくぐもった声で)おんぱりそは、あんたでしょう、はる。
はるひこ:意味だよ。新しい国語辞典の「お」のところを探しても、おんぱりそなんて書いてないよ?
みちこ:あんたのあだ名だから載ってないんじゃないの? 子どものあだ名まで入れたら、大変なことになるでしょう?
はるひこ:お父さんは知ってるかな?
みちこ:お父さんが付けたんだから知ってるんじゃない? お父さんが帰ってくる前に、あんた、お風呂入っちゃいなさい。
はるひこ:はーい。
(はるひこ、お風呂に行く。入れ替わりで、玄関のドアがガチャリと開き、まさよしが不機嫌そうに入ってくる)
まさよし:帰ったぞ。変わったことはないか?
みちこ:(ソファから動かずに)あら、おかえりなさい。はるが、おんぱりそって何って聞いてたわよ。
まさよし:(ネクタイを緩めながら)おんぱりそはおんぱりそだろう。
みちこ:意味ですよ、意味。
まさよし:意味は、「はるひこ」だ。
みちこ:え、あなたが作った言葉なんですか?
まさよし:(鼻を鳴らして)ふん。そんなわけあるか。おんぱりそは立派なスペイン語だ。Un Paraísoのことだ。
みちこ:スペイン語? ほんとですか?
まさよし:私がこれまでに嘘をついたことがあるか。
みちこ:知りませんよ。あ、ごはんのスイッチ入れたかしら。
(みちこがのっそりとソファーから起き上がり、台所へ向かう)
なつひこ:らっら、らっら。
(なつひこ、指を耳元でこすり合わせ、にやにやしている)
まさよし:(なつひこを見下ろして)おお、ぽんちょ。みな、Un Paraísoを知らんとは、情けないな。Un Paraísoは、ひとつの楽園、大切なものという意味だ。
なつひこ:らっら、らっら。
まさよし:ぽんちょは、わかるか。な、ぽんちょ。お前がまだ小さいころ、あったかそうなポンチョを被っていたからな。私も被ってみたかったが、頭が大きすぎて入らなかった。
なつひこ:だっ!
(なつひこが突然立ち上がり、テレビの前を横向きにぴょんぴょんと三回跳ねる。そして元の場所に戻り、レンゲをじっと見つめる)
みちこ:(台所から)あなた、いま少しだけ聞こえたんですけど、あれはポンチョではないですよ。
まさよし:盗み聞きか?
みちこ:人聞きの悪い。なつが幼稚園のころに付けてたのは、園のスモックでしょう?
まさよし:……。(鼻を鳴らす)ぽんちょはぽんちょだ。
みちこ:(まさよしをじっと見る)
まさよし:なんだ。
みちこ:ロマンチ……。
まさよし:(みちこの言葉を遮るように)や、やかましい。
(まさよしの頭からモアッと湯気が立つ。もうひとり身体から湯気を出したはるひこが現れる)
はるひこ:あ、お父さん。あのね。
みちこ:ほら、湯冷めするから、服を着なさい。
なつひこ:だ、だ。
(台所からの水音だけが、ホコリの匂いがする居間に響いている)
(幕)
作・千早亭小倉



