【登場人物】
はるひこ(10): 主人公。小学5年生。算数の問題文に隠された人間ドラマを読み解こうとする。
なつひこ(5): 弟。耳の横で指をこすり合わせるのが好き。
みちこ(40): 母。専業主婦。ソファが定位置。
まさよし(45): 父。弁護士。なんだかいつもイライラしている。
【場面設定】
はるひこが床に腹ばいになって、算数のドリルを解いている。しかし、鉛筆は動かず、うっとりとした表情に。母のみちこはソファで横になり、天井をぼんやり見ている。弟のなつひこは、はるひこの横に座り、耳元で指先をこすり合わせ、その音に集中している。
みちこ:はる(はるひこのこと)。ほれ、ひっつき虫(はるひこのこと)。さっきから手が止まってるわよ。算数の宿題、終わったの?
はるひこ:……ねえ、お母さん、この問題すごいよ。
みちこ:すごいって、ただの旅人算でしょう? 兄さんが歩いて、弟が自転車で追いかけるような。
はるひこ:(興奮して)そう!
みちこ:ほら。
はるひこ:だから、そこ! 「兄が分速60mで家を出た15分後に、弟が分速400mの自転車で追いかけました」って。これ、ただの算数じゃない。国語辞典の例文みたいだ 。
みちこ:……例文?
はるひこ:(うっとりと読み上げる)そう。『おいかける【追い掛ける】例文)弟は、恐ろしい速さで、兄を追いかけた。』……みたいな。
みちこ:……早く答えを出しなさいよ。
はるひこ:答えって、何分後に出会うか、でしょ? でも僕が知りたいのは、なぜ弟はそんなに必死なのかってことだよ。分速400mだよ?
みちこ:忘れ物でも届けたいんじゃないの。
はるひこ:分速400mで忘れ物を届ける弟なんていないよ! 阪急の福本豊だって、こんなに必死に走らないよ。
みちこ:…ふくもと? 誰よ、はるの友達?
はるひこ:盗塁王だよ! この弟は兄さんが嫌いなんだ。だから、兄さんから「平穏な日常」っていうベースを盗もうとしてるんだ。これは事件だよ。
(はるひこの熱弁に呼応するように、なつひこが突然、声を上げる)
なつひこ:らっら、らっら!
(なつひこが突然立ち上がり、ぴょんぴょん飛びはねる)
みちこ:ほら、「追いかける」なんてはるが言うから、なっちゃんが「追いかけっこ」すると思ったんじゃないの? まったく……。
はるひこ:そうだ、なっちゃんは「兄」なんだ!
みちこ:兄はあんたでしょう、ひっつき虫。
はるひこ:(もう、自分の世界)なっちゃんは追われてるんだよ、分速400mの弟に! 逃げて、なっちゃん!
(はるひこが叫ぶと、なつひこは興奮し、部屋のなかをぴょんぴょん飛ぶようにぐるぐる回りだす。そこへ、玄関のドアが開き、父のまさよしがイライラした様子で入ってくる。頭からモアッと湯気が立っている )
まさよし:おーい、帰ったぞ。なんだ、やかましい! 何を騒いでいるんだ!
みちこ:あら、お帰りなさい。早いのね。はるが、算数の宿題と格闘してるんですよ。
まさよし:(ドリルを覗き込み)旅人算か。なんだ、まだこんな問題に苦しんでいるのか、おんぱりそ(はるひこのこと)。
はるひこ:解けるよ。解けるけど、納得がいかないんだ。
まさよし:何がだ!
はるひこ:お父さんは弁護士だから聞くけど、兄が「追いかけられたくない権利」って、法的に守られないの?
まさよし:……権利?
はるひこ:だって、この前の最高裁の判決では、「日当たり」を守る権利が認められたんでしょ? だったら、弟のしつこい追跡から自分を守る権利だって、認められるべきじゃないかな。
まさよし:べき……。
(まさよしは、息子の真剣な問いに聞こえないふり。頭の湯気の量が増える。はるひこの視線は、部屋をぴょんぴょん飛んで走り回る弟のなつひこに注がれている)
はるひこ:ねえ、お父さん。
まさよし:なんなんだ、お前は。
はるひこ:そもそも、兄と弟って、本当に出会う必要があるのかな?
(まさよしは、返す言葉が見つからない。居間には、なつひこの「らっら、らっら」という声と、まさよしの頭から湯気が出る音なき音だけが響いている)
(幕)
作・千早亭小倉



