【登場人物】
徒然士:51歳。ここあん大学の日本文学科講師で文芸評論家。完璧な様式美を信奉する、気難し屋で尊大な男。「ちょんまげ生えるわ」が口癖。
辻 さゆり:28歳。フリーランスの凄腕校正者。感情のノイズを排し、事実の整合性のみを愛する「言葉の外科医」。
東山 キイロ:20歳。喫茶「小古庵」のアルバイト。没落したお嬢様だが底抜けに明るく、インテリの論理を純粋な質問で破壊する「天然のクラッシャー」。
【場面設定】
昼下がりの喫茶店「小古庵」。カウンター席で徒然士が遅めの昼食であるハンバーグ定食を食べている。隣の席では、辻さゆりがゲラの束に向かい、赤ペンを走らせている。

徒然士:うむ。志乃さんの作るハンバーグは、今日も見事な焼き上がりだ。この粗挽き肉から溢れる肉汁に、ドイツはハンブルグの港町が誇る重厚な労働者の活力を感じる。荒波に立ち向かう船乗りたちの息遣いが、この鉄板の上に鮮やかに再現されているようだ。
辻さゆり:(ゲラから顔を上げずに)徒然士先生。ハンバーグの発祥はハンブルグではなく、フランクフルトです。昨晩、ちょうどテレビで放映していた映画『チャーリーズ・エンジェル』でも言及されている、よく知られた事実ですよ。
徒然士:テレビ? いや、それよりも、なんだと? ハンバーグがフランクフルトで生まれたと言うのか。
さゆり:はい。ですから、先生が先ほどから熱弁している「ハンブルグの港町の活力」や「船乗りの息遣い」は、完全な事実誤認に基づく虚偽の感傷です。前提が間違っている以上、その文章はすべて赤字で削除の対象になります。
徒然士:ちょんまげ生えるわ。ハンブルグステーキという名前に込められた歴史の重みと響きを、ただの事実誤認で片付けるとは野暮の極みだ。真実は常に言葉の響きの奥にあるのだ。
さゆり:名前に歴史の重みなどありません。あるのは、発祥地と名称が一致していないという不整合な物理的現実だけです。事実に基づかない様式美は、ただの空虚な錯覚です。
東山キイロ:(ガラスのピッチャーを持って近づき)お水、お注ぎしますね。あら、ハンバーグのお話ですか。志乃ママのハンバーグ、お肉がキュッとしていて美味しいですよね。
徒然士:おお、キイロくん。君なら分かるだろう。このハンバーグという名前の美しい響きに、北ドイツの冷たい海風を感じないかね。
キイロ:海風ですか。私はお肉とデミグラスソースのいい匂いしか感じません。それより、さっき聞こえたんですけど、ハンバーグがフランクフルトで生まれたって本当ですか。
さゆり:ええ、本当です。
キイロ:じゃあ、串に刺さっている長いソーセージの「フランクフルト」はどこで生まれたんですか。もしかしてハンブルグですか。バーター的な。
さゆり:フランクフルト・ソーセージの発祥は諸説ありますが、一説にはウィーンの職人が作ったとも言われていますね。
キイロ:ええっ。じゃあ、お弁当によく入っているタコさんの「ウィンナー」はどこから来たんですか。
さゆり:ウィンナーは「ウィーン風」という意味ですが、ドイツのフランクフルトで作られたものが起源だという説が有力です。
キイロ:ん、これはバーター? でも、頭がこんがらがってきました。ハンバーグはフランクフルトで、フランクフルトはウィーンで、ウィンナーはフランクフルトなんですね。
徒然士:待ちなさい。それでは、すべての言葉が本来の意味と発祥から完全に乖離して、世界がカオスに陥ってしまうではないか。
キイロ:言葉って嘘つきばっかりですね。先生、その嘘つきのお肉、美味しいですか。
徒然士:嘘つきのお肉。そんな志乃さんが、そんな。
キイロ:わかりませんよ、志乃ママは魔性の女なんです。名前と生まれた場所が全然違う、迷子のお肉を使っているんです。
徒然士:ま、迷子の、お肉。
さゆり:正確な指摘ですね。嘘つきよりも迷子と呼ぶほうが、肉自体の罪の無さを端的に示しています。さて、先生の様式美は、迷子のお肉の前に完全に敗北したわけですが。
徒然士:私の完璧な批評が、ただの迷子のお肉の食レポに成り下がってしまった。ちょんまげが三本生えるわ。
キイロ:空いたお皿、お下げしますね。
(キイロが満面の笑みでハンバーグの皿を片付ける。徒然士はテーブルに突っ伏して崩れ落ち、さゆりは無表情のままゲラに赤字を入れ続ける)
(幕)
作・千早亭小倉
![[公式]箱庭の語り部 千早亭小倉](https://atelier-cocoan.com/wp-content/uploads/2026/04/20260410_125128.jpg)





