コント「師匠の優雅なる空白」

前段【登場人物】
米山共子
:高名なピアノ教師。愛弟子(糠森ひな)が自立し、現在は完璧な孤独を持て余している。
氷上冬子:氷上静の母。共子の強がりを特等席で楽しむ生の肯定者。
中野あやね:中野小春の母。他人の会話の文脈を完全に無視して平和を保つ観察者。

【場面設定】
湖畔のブックカフェ「シズカ」のテラス席。陽光が差し込んでいる。

米山共子:(グラスの飲み物をひと口飲み、背筋を伸ばす)本当に、素晴らしい朝ね。ひなが自分の足で歩き始めた今、私にはこの優雅な時間が残された。教え子の未熟な打鍵音に頭を悩ませることもない。完璧な静寂。これこそが芸術家の到達点よ。

氷上冬子:(面白そうに共子を見る)ええ、素晴らしいわ。毎日のように私たちを呼び出して、その席で同じセリフを言っているものね。あなたのその完璧な静寂、音漏れしてるわよ。

中野あやね:(重箱の蓋を開ける)今日の卵焼きは、お出汁を少し多めにしてみたの。お砂糖は控えめ。

共子:冬子さん、誤解しないでちょうだい。私は自由を謳歌しているの。昨日なんて、爪の手入れに二時間もかけたわ。ピアニストにとって指先は命。泥や埃に触れるなんて言語道断よ。それを誰にも邪魔されずにできる喜びといったら。

冬子:そう。でも共子さん、さっきからテーブルの下で、足先がリズムを刻んでいるわよ。貧乏ゆすりのワルツかしら。それとも欲求不満のマーチ?

共子:(ピタリと足を止める)指導者としての癖が抜けないだけよ。私は満たされているわ。もう誰の人生も背負わなくていい。私の美しい指先は、私だけのものよ。

あやね:小春の淹れてくれるお茶は、いつも温度がちょうどいいわね。冷めないうちにいただきましょう。

冬子:あやねさん、共子さんは、寂しさを紛らわすアルコールをご所望かも。ねえ共子さん、いっそその辺の若い子を捕まえて、箸の持ち方でも指導したらどう?

共子:冗談じゃないわ。寂しさ紛らすなんて、演歌でもあるまいし。

あやね:あら、演歌いいじゃない。

共子:「その辺の若い子」って話のほう。私は本物の才能にしか興味はないの。徹底的に管理され、磨き上げられた、純度の高い知性と規律。それを持たない人間など、私の視界に入る資格すら……。

(突然、遠くの湖畔の方から、けたたましい車のエンジン音と、ラテン音楽の大音量が響き渡る)

共子:(眉をひそめる)何かしら、あの野蛮な音は。

冬子:(身を乗り出して湖畔の方を見る)あら。派手なキャンピングカーが停まったわよ。誰か降りてきたみたい。

あやね:賑やかでいいわね。卵焼き、もう一ついかが?

共子:(顔をしかめたまま、がっと握ったグラスを持ち上げる)まったく。どこの田舎者が迷い込んできたのかしら。私の完璧な休日に、泥を塗るような真似だけは許さないわよ。

冬子:ここも十分田舎だけどね。

あやね:そう。高層ビルが見える田舎。

(後段に続く)

後段【登場人物】
氷上静
:ブックカフェ「シズカ」オーナー。理性の信奉者。テラス席にいる氷上冬子の娘。
中野小春:「シズカ」共同オーナー。静のパートナー。テラス席にいる中野あやねの娘。

【場面設定】
ブックカフェ「シズカ」の店内。窓越しのテラス席には、重箱を広げる中野あやね、水筒を手にする氷上冬子、グラスをがぶ飲みしている米山共子の三人がいる。 遠くの湖畔から、けたたましいエンジンの駆動音と、底抜けに明るいラテン音楽が響いてくる。

中野小春:(窓の外へ視線を向ける)静ちゃん、あっちに派手なキャンピングカーが停まったよ。車の屋根に、はしごがたくさん付いてる。

氷上静:(小春の言葉を無視し、テラス席をにらむ)小春。うちの店は、いつから飲食物の持ち込みを許可するようになったんだ?

小春:(それには答えず、カウンター下の引き出しを開けて中を探る)たしか、バードウォッチング用の双眼鏡がこの辺りにあったはずなんだけど。

:みなでうれしそうに重箱の卵焼きをつついているが。しかも、あの人たち、小春が淹れたお茶をそっちのけで、酒を飲んでないか? アルコールの気化する匂いがガラス越しでも予測できる。

小春:引き出しの奥かな。

:まだ、午前中だぞ。

小春:(取り出した双眼鏡を覗く)静さん、あれはキャンピングカーというより、移動式の遊園地みたいだよ。

:ここはブックカフェが似合う静かな湖畔だ。行楽地ではない。なぜ、みながそろって、このここあん湖の文脈を理解しようとしないんだ。

小春:あ、女の人が車から降りてきた。

:今すぐテラスへ行って、お前の母親に注意してこい。卵焼きをしまうか、追加の席料を払うかだ。

小春:静さんも見る? 車の横で、つなぎを着た人と派手な服の人が、意味もなくハイタッチしているよ。

:私は見ない。私はただ、この店の秩序を守りたいだけだ。

小春:あ、今度はハンマーを持ち出した。面白い人たちだね。

:(深くため息をつく)小春。お前も、私の言葉の文脈を完全に無視しているな。

(幕)

作・千早亭小倉

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