【登場人物】
はるひこ:10歳。ポケットにノートと短い鉛筆を入れている。
みちこ:母親。買い物かごを持っている。
【場面設定】
昭和47年。東宝映画砧撮影所の裏手。コンクリ塀と竹林の間の小道を、はるひことみちこが歩いている。買い物帰りのようである。

(みちこがペタン、ペタンとサンダルを鳴らして歩いている。斜め後ろを、はるひこがついていく。コンクリ塀のずっと上のほうに、青空と白い雲が描かれた巨大な背景画がそびえ立っているのが見える)
はるひこ:お母さん、見て。本物の空の下に、四角い空があるよ。
みちこ:(首だけ少し動かして)ああ、あれね。撮影所で使う絵よ。
はるひこ:(足を止めて首が痛くなるくらい見上げる)なんで空の絵なんか置いてあるの。上を見れば、本物の空があるじゃない。
みちこ:(立ち止まらずに、買い物かごを右手に持ち替える)本物の空は、急に曇ったり雨が降ったりするでしょ。映画を撮る人は、自分の好きな空がずっとそこにあってほしいのよ。
はるひこ:ふうん。
(はるひこは、ポケットからノートと鉛筆を出して、カリカリと文字を書く。首筋を汗がツツーっと流れる。)
はるひこ:お母さんは、あの四角い空と本物の空、どっちがいい?
みちこ:(前を向いたまま歩き続ける)どっちでもいいわよ。お母さんはね、今日の晩ごはんのことで頭がいっぱいなの。冷蔵庫にある鶏肉を、どう使い切ってやろうかってね。(小声でぶつぶつ)少し傷みかけてたかしら。
(みちこが小さく息を吐く。はるひこがコンクリ塀を見ると、大きなカマキリが四角い空のほうを向いてじっとしている)
はるひこ:あいつ、どっちの空を目指してるのかな。ねえ、晩ごはんだけど。
みちこ:(はるひこの言葉に少し遅れて、「ごまかす」とかそんなことを言っている)となると……。
(二人がほとんど同時に口を開く。声のタイミングが重なりそうで、しかし絶妙にハモらずにズレる)
はるひこ:カレーがいいな。
みちこ:カレーでいいわね。
(はるひこの声は心底嬉しそうに弾んでおり、みちこの声はいかにも日常の作業といった平坦なトーンで響く。テンションはまったくすれ違っているが、親子としての感覚は同じ場所に着地している)
みちこ:じゃがいもは、溶けないくらいに大きめに。あんた、そっちが好きでしょう。
はるひこ:わーい。
(はるひこはノートをしまって、小走りでみちこを追いかける。二人の歩くテンポはズレたまま、夕暮れの道を歩いていく。ふたりの会話が小さく聞こえる)
はるひこ:おかあさん、うちのカレーはなんで鶏肉なの? 前は牛肉だったよね。
みちこ:おとうさんが「お金もちは牛肉なんだ」って。前は豚肉だったのよ、うちのカレーは。おぼえてないでしょう。
はるひこ:へえ。ぼく、鶏肉のカレー好きだよ。
みちこ:健康にいいのよ。どれも考える手間は変わらないけれど。
(上のほうに、四角い空がそびえている)
(幕)
作・千早亭小倉
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