【登場人物】
恋流波 陽(ハル):ここあん大学の学生。過去の危うい疑似恋愛に疲弊し、「ぽんちょ」でアルバイトを始めた青年。小春の予測不能なギャップと底知れぬ包容力に強く惹かれ、癒やされている。
中野 小春:編集プロダクション「ぽんちょ」のパートスタッフ。普段は穏やかな常識人だが、なぜかハルの前でだけ突飛な言動や悪戯っぽい顔を見せ、彼を振り回す。
鶴亀 昌子:「ぽんちょ」社員。過酷な修羅場を「思考停止」で乗り切る自己防衛術と、なぜか潤いを失わない驚異的な美肌の持ち主。
臼葉:「ぽんちょ」社員。奇行と独り言が多いが編集能力は高い。「なぜ自分は苗字しかないんだ」が口癖の怪人。
【場面設定】 椎名町三丁目の古い雑居ビルにある、編集プロダクション「ぽんちょ」のオフィス。締め切りに追われる深夜の修羅場の中。

(深夜のオフィス。ハルが徹夜作業の合間に、デスクの横に寝袋を敷いて仮眠を取ろうとしている)
ハル:ふぁ……中野さん、すみません。僕、1時間だけ仮眠取ります。もう頭が回らなくて……。
中野小春:ハルくん、ゆっくり休んで。あ、ちょっと待ってね。
(小春、おもむろに太いマスキングテープを取り出し、ハルの寝床の周りの床に、ぐるりと円を描くように貼り始める)
ハル:え、中野さん? なんですか、その魔方陣みたいなの。
小春:魔方陣じゃなくて、これは結界。砂漠や草原を旅する遊牧民の知恵よ。昔ね、モンゴルに住んでた時に教わったのよ。寝る前に地面に円を描くとね、小さな溝ができて、蛇やサソリがその振動や質感を嫌がって入ってこないの。足跡もすぐわかるしね。
ハル:振動? 質感? 遊牧民のサバイバル術ですか。でも中野さん、ここは椎名町三丁目の古い雑居ビルですよ? サソリなんて出ませんって。
小春:あら、深夜の「ぽんちょ」を舐めちゃダメよ。ここにはサソリより凶暴な「締め切り」や、毒蛇よりしつこい「印刷所からの催促」、それに、徹夜で目を血走らせた鶴と亀がすぅべったんだから。
ハル:……確かに。ある意味、砂漠とは別の過酷さが。
小春:ね? これでハルくんの安眠は守られたわ。
(小春、テープをちぎり、円の一部を少しだけ途切れさせる)
ハル:あれ? そこは?
小春:ふふっ。これはね、私が入り込めるように、隙間を開けといたの。
ハル:えっ?
小春:これ、私は通れる結界。もしハルくんが怖い夢を見たら、この隙間からいつでも私がそーっと入り込んで、朝まで添い寝してあげるからね。ふふっ。
(小春、目をきれいな三日月型に細め、艶っぽく悪戯に微笑む)
ハル:(一気に顔が赤くなる)な、中野さん、またそうやって僕をからう!
小春:ふふ、冗談よ。おやすみなさい、ハルくん。良い夢を。
(ハルがそれではと、寝袋に潜り込もうとした瞬間、背後から無機質な声が響く)
鶴亀昌子:中野さん、それでは結界にならないじゃない。
ハル:うわっ!? 鶴と亀!
(現れたのは先輩社員の鶴亀。深夜の極限ストレス下で『思考停止』の自己防衛術に入っているためか、焦点は合っていないが、なぜか頬から顎にかけて驚異的な潤いと美肌を保っている)
鶴亀:サソリも、印刷所からの催促電話も入り放題よ。
ハル:(心の声)鶴亀さん、完全に目が死んでるのに、肌だけ異常につやつやだ。眩しくて眠れない。
小春:あら、昌子さん、今日もお肌の調子がいいわね。でも大丈夫よ、この隙間は私が入り込むための専用ゲートだから。
鶴亀:ルーターのポートみたいなものかしら(意味不明)。じゃあ、私は弾かれておいてあげるわ。
(鶴亀がフラフラとデスクへ戻ろうとしたその時、オフィスの奥から奇声が上がる)
臼葉:うおおおおおっ! ない! ないぞ!
ハル: 今度は臼葉さん? 全然、眠れない。
(髪を振り乱した臼葉が、独り言をぶつぶつ言いながら現れる)
臼葉:ペーパーセメントがない! あと少しでレイアウトが完成するのに! 名前だけじゃなく、ペーパーセメントまでないなんて!
(臼葉の血走った目が、ハルの寝床を囲むマスキングテープの結界にロックオンされる)
臼葉:こんなところにちょうどいいものが。
(臼葉、マスキングテープをむしり取る)
ハル:あっ、僕の結界!
(臼葉はハルの制止も聞かず、テープの円を「バリバリバリッ!」と勢いよく30センチほど引きちぎり、そのままオフィス奥へ)
小春:ふふ、今の「ボクノケッカイ」、可愛いかったよ。
ハル:中野さん……結界の穴、めちゃくちゃ広がっちゃいましたね。これじゃサソリも毒蛇も入り放題ですよ。
小春:ほんとだね。私だけじゃなくて、昌子さんも臼葉さんも、なんならモン太郎社長まで入り放題だね。
(小春、困ったように指を組み、少し眉をひそめてから、悪戯っぽく微笑む)
小春:ふふっ。ハルくん、今夜はぽんちょのみんなで川の字になって、賑やかな夜になりそうね。
ハル:それ、絶対寝られないじゃないですか!
(幕)
作・千早亭小倉







