あの一件以来、僕の日常はほんの少しだけ変わった。
文芸部の部室のドアを開ける足取りは、以前より心なしか軽くなった。もちろん、黒崎部長の罵詈雑言が減ったわけではない。むしろ、僕という存在を的確に表現する語彙は、日増しに豊かになっている気さえする。
だが、僕には分かっていた。あの痛烈な言葉のシャワーの後に、万に一つくらいの確率で、ほんの一瞬だけ、彼女の承認が垣間見える瞬間があることを。11枚の駄文を読んでくれた、あの時のように。
「……それで? いつまで感傷に浸っているつもりだ、凡俗」
今日も今日とて、僕が提出した掌編小説をゴミでも見るような目で一瞥し、黒崎部長は言った。
「君の文章は、致命的に体温が低い。まるで、マネキン人形が会話しているだけの空虚な舞台を見せられているようだ」
「体温、ですか……」
「そう、体温だ。キャラクターに血が通っていない。それは何故か。答えは単純だ。君が、人間というものを正しく観察していないからだ」
彼女は、ふう、と息をつくと、僕に新たな指令を下した。
「課題を与えよう。誰でもいい。ある一人を一日観察し、その人物の行動や特徴をまとめたキャラクター・スケッチを提出しろ。それができなければ、君は永遠にマネキン作家のままだ」
「一日、ですか……。それって、まさか24時間ってことですか?」
僕の問いに、黒崎部長の瞳が少しだけ「感情」を持って、ぼくに向けられた。
「君なぁ、こういう場合、一日と言えば常識からして半日のことだろう?」
「半日って……12時間ですか? それでも無理ですよ!」
僕が当然の反論をすると、彼女の「感情」は、より具体的に、「憐れなものを見る」という姿で、深い深い溜息を伴って、僕のほうまで漂流してきた。
「思考が短絡的だな。いいか? 一日は24時間。だが、我々学生が活動しているのは、睡眠時間を除いた覚醒時間、すなわち約16時間。そのうち、他者を能動的に観察できるような有意義な時間は、さらにその半分、約8時間と定義するのが合理的だ。……いや、君のような凡俗の場合、集中力が持続するのはその半分、4時間といったところか。ならば『一日』とは実質2時間でいい。どうだ、私の温情に感謝しろ」
彼女は、さも当然のように、独自の理論を展開してみせた。あまりの理不尽さに、もはや反論する気力も湧いてこない。
「……分かりました。やってみます」
「よろしい。せいぜい、君のその節穴であろう観察眼による、面白いレポートを期待している」
そうして僕は、文芸部室を追い出された。
「誰かを観察する」という、途方もない課題を抱えて。
一体、誰を観察すればいいんだ?
友人? 先生? それとも、まったく知らない誰か?
途方に暮れながら廊下を歩いていると、ふと、体育館の方から快活な声が聞こえてきた。声に導かれるように中を覗くと、女子バスケットボール部が練習試合をしている。
その中に、ひときわ目を引く少女がいた。
ポニーテールを揺らし、太陽のような笑顔でコートを駆け回る、快活な少女。確か、クラスメイトの……。
「がんばれー! あともう一本!」
仲間を鼓舞するその声と姿は、薄暗い文芸部室で哲学書をめくる黒崎部長とは、まさに対極の存在に見えた。
……観察対象、か。
僕は無意識のうちに、その少女の姿を、目で追っていた。
これが、新たな地獄の始まりになるとも知らずに。
(第4話に続く)
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