これは、日記の名を借りた、中野文の記憶。
遠野駅から釜石線の列車に揺られ、鱒沢の駅に降り立った時には、あたりはすっかり夜の底に沈んでいた。鱒沢は無人駅で、改札を抜けるような駅舎はない。ホームから直接、構内の小さな踏切を渡って外へと出る。靴底が線路の敷板を踏む、私と千夏さんの乾いた足音が、夜の空気に吸い込まれていくように消えた。
家までは、歩いて十分かかるかかからないか。ただ、その道のりの途中には、鬱蒼とした木々が左右から迫ってくるような林を抜けなければならない。昼間でも寂しい場所だ。街灯の光も届かないその道をふたりで歩き出そうとした時、背後から声をかけられた。
大家さんだった。どうやら、私たちと同じ列車に乗っていたらしい。
「こんばんは。こちらは」
挨拶とともに、千夏さんを大家さんに手短に紹介する。大家さんは千夏さんに軽く顎を引いて見せ、それから私たちの足元と進む先を交互に見た。
「何やってんだ? こんな暗い中、娘っこが歩いて帰る気か。乗ってけ」
有無を言わさぬ響きだった。駅のすぐそばの砂利敷きの駐車場に停めてあった、大家さんの軽トラックの助手席に私たちは押し込まれるようにして乗り込んだ。車内は、土と古い布の匂いがした。エンジンの細かな振動が、足の裏から伝わってくる。
あっという間に家の前に着いた。
「あがって、お茶でもいかがですか」
私が窓越しに声をかけると、大家さんはハンドルに手を置いたまま、短く首を横に振った。
「ばあさんが待ってるから」
そう言い残して車を出そうとした大家さんの視線が、ふと、庭先に停めてある私の車に止まった。目尻のシワが深くなる。
「まだ乗ってんのか、あれ。これもそろそろ買い替えだな」
大家さんは声に出して笑った。そこに悪気や嫌味はない。この土地特有の、ぶっきらぼうだけれど裏表のない挨拶のようなものだ。
「ありがとうございました」
私が小さくなる車に向かって声を張ると、大家さんは窓から片手を少しだけ挙げた。「あいよ」という声がかすかに聞こえ、そのまま私と千夏さんだけが薄暗い闇の中に残された。
千夏さんが、大家さんのさっきの視線をなぞるように、私の車に目を向けた。どこにでもある、見慣れた形の軽自動車。特別に褒めるようなところも、目を引くような意匠もない。千夏さんの視線が、車の屋根からボンネットへとゆっくり移動し、何か言葉を探すように少しだけ唇が動いた。けれど、その言葉は音にならず、彼女は小さく息を呑み込んだ。
「いいのよ、無理にほめなくても」
私は千夏さんのその真面目な躊躇いがおかしくて、小さく笑いながら言った。千夏さんは少しだけ肩をすくめ、困ったような、それでも真っ直ぐな目で私を見た。
「何かあるんですか? あ、ごめんなさい」
言い終えるよりも早く、彼女は謝った。相手の領域に無防備に踏み込んでしまったのではないかという、彼女の繊細な配慮が、その短い言葉に詰まっていた。
息を口から静かに吐き出す。吐き出した分だけの夜の冷たい空気が、鼻から静かに入ってくる。
私の心の中にある引き出しの一つが、微かに揺れた。けれど、今はまだ、その鍵を開ける時ではないような気がした。
「それは、また今度ね」
私はそれだけを言って、家の玄関へ向けて歩き出した。千夏さんも何も言わず、私の足音に合わせて静かについてきてくれた。
これは、日記の名を借りた、中野文の記憶。
中野文
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