ここあん図書館二階、かつての一般図書フロアは、菜箸千夏にとって、完璧に調律された楽器のような場所だった。背表紙の高さ、色合い、日本十進分類法の聖なる数字。そのすべてがミリ単位で管理され、静謐な調和を奏でる。彼女は書架の端から端までを検分し、わずかな乱れもないことを確認して、満足のため息を一つ静かに吐く、それが彼女のルーティンだった。
あのことによって、図書館のすべてが変わった。館内での閲覧・貸出は最低限に集約され、今や移動図書館ロマコメ号による巡回が図書館業務のメインとなっている。だが、その中でも変わらないものがひとつあった。
菜箸千夏にとっての本来あるべき完璧な楽譜に記された、唯一の不協和音。フロアの隅に位置する、同僚・鈴木美桜の事務机だった。
美桜の机は、もはや机というよりも、文明の地層と呼ぶべき代物だった。移動図書館で受け取った返却本が不安定な塔を築き、その麓には数週間前のイベント告知チラシが丸まって埋もれ、山頂には、利用者からもらったものだろうか、粘土細工の歪な生き物が鎮座している。それは千夏の潔癖性を日々、静かに、しかし確実に蝕む混沌の特異点であった。
ガラス張りの副館長室で、その特異点を苦々しく睨む影が動いた。副館長の高島雅也だ。やがて、硬い革靴がリノリウムの床を叩く、冷たく規則的な音が近づいてくる。フロアの空気が、摂氏二度ほど下がった。
「鈴木さん」
雅也の声は、怒気を消し去った分だけ、かえって重い圧力を帯びていた。彼は美桜の机の前に仁王立ちし、その地層の頂上から麓までを、まるで害虫でも検分するかのように見下ろしている。
「この状態は、図書館の服務規程第十七条、職員の職場環境維持義務に抵触すると思わないかね」
「ええ? これですかあ?」
当の美桜は、本の塔の陰からひょっこりと顔を出し、悪びれる様子もなく首を傾げた。彼女のその悪意のない大雑把さが、雅也の完璧主義を最も苛立たせるのだと、千夏は知っている。
「これは、一種の防衛システムと言いますか、あたしの記憶の鎧だと思って見逃してくだせえ」
「小芝居も見飽きた、詭弁も聞き飽きた。本日中に、この非生産的な物体群を、あるべき場所へ移動させなさい。これは業務命令だ」
雅也の言葉が、ぴしゃりとフロアの空気を打った。その時である。音もなく、第三の人物がその場に現れた。館長の龍泉寺砌だ。在野の文芸評論家から突如、この図書館の長となった男は、幽霊のように気配を消して歩く癖があった。
龍泉寺は、何も言わずに美桜の机を眺めている。その視線は、評価も判断も含まない、ただ純粋な観照者のそれだ。雅也は、館長がこの醜悪な混沌をどう断罪するか、固唾をのんで見守っている。彼の美学の前では、いかなる言い訳も通用しまい。千夏もまた、書架の陰からその静かな対決の行方を見守っていた。
長い沈黙の後、龍泉寺はすっと細い指を上げ、混沌の山の一点を指し示した。それは、美桜がどこかの土産物屋で買ってきたであろう、木彫りの熊だった。しかも、鮭ではなく、なぜかフランスパンを咥えている、奇妙な一品だ。
「この熊」と、龍泉寺は呟いた。「この、あり得ない取り合わせのキッチュさ。そして、周囲の雑多な物体との、計算されていない配置が生み出す、絶妙な不均衡。まるで、ダダイストのオブジェのようだ」
雅也の顔から、血の気が引いていくのが千夏にも分かった。
「完璧な秩序は、時に死を意味する」龍泉寺は続けた。「だが、この、生命力に満ちた無秩序。雑然としているようでいて、そこには持ち主の『生』の軌跡が、ありのままに刻まれている。実に、美しいじゃないか」
その言葉が、静まり返ったフロアに染み渡った、まさにその時だった。どこか遠くから、しかし明瞭に、間の抜けた節回しの声が聞こえてきた。
『いしやぁ〜きいもぉ〜……おいもおいもおいもっだよぉ……』
移動販売車のスピーカーが流す、気怠い呼び声。それは、龍泉寺が構築した高尚な美学の空間に、蜜の匂いを纏わせた、あまりに日常的な現実の一撃だった。雅也は、言葉を失っていた。服務規程も、業務命令も、新館長の「美」という絶対的な価値観の前では塵芥のように無力だった。そして今、この間の抜けた焼き芋屋の呼び声が、彼の砕け散った権威の上に、追い打ちをかけるように降り注ぐ。龍泉寺は窓の外に一瞥をくれると、かすかに口の端を上げた。
「……生の営みは、美しい」
それが、決定打だった。雅也は、何かを言いかけ、しかし何も言えず、やがて音もなく踵を返し、自らのガラス張りの部屋へと撤退していった。その背中は、千夏が見たこともないほど、小さく、そしてどこか滑稽に見えた。
「ええっ、いしやきいも? 季節、早すぎません?」
無邪気に呟く美桜の横で、千夏は自分が完璧に整頓した書架の列を、もう一度見つめた。規則正しく並んだ背表紙が、なぜだか急に、色褪せた退屈な風景に見えてくる。
この図書館では、どうやら常識も、規則も、絶対ではないらしい。千夏は、この予測不能な職場を、自分は案外、嫌いではないのかもしれない、とぼんやり考えていた。
(了)
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