【登場人物】
南花 おちば:劇団「かもかも」の新人若手女優。ゆるキャラ「ちいにゃん」の中の人でもあり、プロ意識は高い(つもり)。
赤井 葵:劇団「かもかも」の看板ベテラン女優。プロとしての実力とプライドを持つ、エネルギッシュな関西人。
鴨下 留美子:劇団「かもかも」の演出家。元・伝説の編集者で、才能の本質を見抜く静かな眼差しの持ち主。
【場面設定】豊島区のはずれ、小古庵アトリエ村の公民館の一室。壁には鏡が貼られ、床には場밀り(立ち位置を示すテープ)がされている。劇団「かもかも」が稽古中。
(葵とおちばが、台本を片手に稽古をしている)
葵:……あんたのせいや。あんたが裏切ったから、うちは、全部なくしてしもうた! この絶望、どうしてくれるんよ!
(葵が、迫真の演技で感情を叩きつける。しかし、向かい合うおちばの様子がどこかおかしい)
おちば:……あなたのせいだにゃ。あなたが裏切ったから、わたしは、ぜんぶなくしちゃったんだにゃん! この絶望、どうしてくれるんだにゃ! にゃーん!
(おちばは最後の「にゃーん!」で、両手を猫のように顔の横に持ってくる「ちいにゃんポーズ」を決める)
葵:ストップ! ストップストーップ! おちばさん! なんで語尾に「にゃん」が付くん⁉ しかも最後のポーズ何⁉
おちば:(真顔で)え? こちらの方が、お客様に絶望感が伝わりやすいかと思いまして。悲しいだけじゃ、伝わらないんです。悲しみの中にも、一抹の可愛らしさを残すことで、お客様の心に「守ってあげたい」という感情が芽生える。これが、ちいにゃんが子供たちの心を掴んで離さない、究極のメソッドです!
葵:知らんがな、そんな着ぐるみのゆるキャラメソッド! これはシリアスな場面や! 恋人に裏切られて、全てを失った女の叫びやで⁉
おちば:分かっています。だからこその「にゃん」なんです。この「にゃん」には、彼女の失われた愛らしさと、それでも捨てきれない母性への渇望、そして社会に対する精一杯の威嚇が……
葵:こまかい設定、もうええわ! とにかく普通にやって! 普通に!
おちば:(少し不満そうに)……分かりました。
葵:ほな、もう一回いくで! ……あんたのせいや! この絶望、どうしてくれるんよ!
おちば:(目をつぶり、何かを溜めるようにして)……この……絶望……。
(おちばは、両手の拳を胸の前できゅっと握りしめる。それはまるで、猫が肉球を握るような仕草だった)
葵:……いや、まあ、さっきよりはええけど……。その手は、何?
おちば:(熱っぽく)これは「絶望の肉球」です。言葉にならない悲しみを、この拳に凝縮させているんです。ちいにゃんが子供たちに「また明日ね」って手を振るとき、実は寂しさで肉球をきゅっと握りしめている、その動きを応用しました。
葵:やから、ちいにゃんから離れえって! 普通の人間は絶望したとき、肉球握らんのよ!
おちば:でも、葵さん。お客様は、分かりやすい記号を求めているんです。この握られた肉球…いえ、拳こそが、彼女の心の悲鳴を可視化する唯一の…
(二人の言い争いがヒートアップしかけた、その時。稽古場のドアが静かに開き、演出家の留美子が、音もなく入ってくる)
留美子:……楽しそうな議論ね。
葵:留美子さん! 聞いてくださいよ! おちばさんの役作りが、猫まっしぐらなんです!
おちば:違います、留美子さん。私は、お客様の心に寄り添う演技を模索しているだけで……
留美子:(葵を手で制し)葵さん、少し黙っててちょうだい。(おちばに歩み寄り、静かな声で)南花さん、もう一度、その『絶望の肉球』を見せてくれるかしら。
おちば:……は、はい!
(おちばが、再び胸の前で拳を握る。留美子は、その動きをじっと見つめ、何かを鑑定するかのように目を細める。そして、おもむろに、おちばと全く同じように、胸の前でそっと拳を握ってみせた)
おちば:あ……。
留美子:(握った拳を静かに見つめながら)…なるほど。確かに、ここには言葉にならない何かが詰まっているわね。悪くないわ。
葵:ええっ⁉ 留美子さんまで⁉
留美子:(葵に向き直り)葵さん、あなたの完璧なリアリティは、この劇団の柱よ。でもね、南花さんのその歪みは、誰にも真似のできない、得難い武器なの。 彼女は、着ぐるみの中で、ずっとお客様の顔色だけを見てきた。だから、私たちの物差しでは測れない場所に、彼女だけの真実がある。
葵:そ、それは……。
留美子:(おちばに優しく微笑みかけ)南花さん、そのままでいいのよ。あなたの信じるやり方で、この役を生きてみなさい。……ただし、語尾の「にゃん」だけは、アパートの家賃だと思って、諦めてちょうだいな。
おちば:アパートの家賃……(留美子の言葉が腑に落ちたようで、ぱあっと顔を輝かせ)はいっ!
(葵は納得いかない顔で腕を組み、おちばは希望に満ちた顔で台本を握りしめる。留美子は、そんな対照的な二人を静かに見つめ、ぽつりと呟いた)
留美子:……完璧な演技と、愛される歪み……。来年こそは、出るわよ「池袋演劇祭」に。そこで本当にお客さんの心を掴むのは、どちらなのかしらね。
(答えの出ない問いが、静かな稽古場に、小さく響いた)
作・千早亭小倉
![[公式]千早亭小倉の世界 | ここあん村案内所](https://atelier-cocoan.com/wp-content/uploads/2026/01/tops2.jpg)

