世界の錆びついた蝶番のような丘の上に、その樹は一本、立っていた。誰が植えたのか、いつからそこに在るのか、誰も知らない。ただ、その枝には年に一度だけ、磨き上げられた琥珀の中に小さな太陽が閉じ込められているかのような果実が、たったひとつだけ実った。
それを口にした者は、たちまち満たされた。空腹は消え、悲しみは和らぎ、心には穏やかな夏の午後が訪れる。噂は風に乗って広がり、やがて人々は丘を目指して旅をするようになった。
はじめの頃、人々は樹に感謝を捧げた。果実を授かる前に祈り、授かった後には歌を歌った。だが、その果実が樹の「痛み」そのものだとは、誰も想像しなかった。
もぎ取られる瞬間、樹の全身を、音のない雷鳴が駆け巡った。根が震え、葉が一枚、また一枚と、まるで涙のようにこぼれ落ちた。果実は樹の魂のかけらであり、それを毎年差し出すことは、自らの記憶を少しずつ削り取られることに等しかった。かつて見ていた鳥の色、感じていた雨の匂い、そういったものが、果実を与えるたびに薄れていくのだ。
そして、人々の心もまた、静かに変質していった。
感謝の歌は、次第に「まだ実らないのか」という苛立ちの囁きに変わった。彼らはもはや、自らの手で畑を耕し、汗を流してパンを焼く喜びを忘れ去っていた。彼らの目は、かつては未来を夢見ていたが、今ではただ枝に実る次の黄金色を映すだけの、鈍いガラス玉になった。
彼らは歌を忘れた。物語を忘れた。愛し合うことさえ、億劫になった。ただ、樹の恵みを待つだけの、生きた抜け殻になった。
樹は悟った。善意とは、なんと美しい檻だろう、と。自分の行いが、彼らから人間であることの輝きを奪ってしまったのだ。与え続けることは、奪うことと同義だったのだ。
痛みと、色褪せていく世界の中で、樹は最後の決意をする。
その年、樹は自らの存在のすべてを、その生命力の最後の一滴までを注ぎ込み、これまでで最も大きく、最も美しい果実を実らせた。それは黄金色に輝きながら、その芯には、夜の闇よりも深い絶望を秘めていた。これを最後に、自分は枯れ果てるだろう。だが、それでいい。この甘い地獄を終わらせられるのなら。
人々は、その完璧な果実を見て歓喜した。一番乗りでそれを手にしようと、我先にと駆け寄った。
だが、彼らが果実に触れようとした瞬間、それはひとりでに枝から離れ、コロコロと丘を転がり落ちて、彼らの手の届かない、深い谷の底へと消えていった。
「ああ……!」
人々の絶望の叫びが、丘に響き渡った。
……しかし、彼らが自らの愚かさを悔い、故郷に帰って鍬を手にすることはなかった。
彼らは、空っぽになった枝を見上げ、やがて一人が、こう囁き始めたのだ。
「これは、試練なのだ」
その声に、別の誰かが頷いた。
「そうだ。我々の信仰が、真に揺るぎないものかどうか、樹は試しておられるのだ」
彼らは谷底へ降りて果実を探そうとはしなかった。彼らは、空っぽの枝の周りに座り込み、来年こそは、と祈り始めた。樹の最後の拒絶は、彼らにとって、より一層信仰を深めるための「奇跡」として解釈されたのだ。
樹の究極の選択は、誰一人として救わなかった。
それはただ、彼らの甘えを「信仰」という名の、より強固な鎖に変えただけだった。
樹は、魂の抜け殻となって枯れていった。その乾いた枝が風に揺れる音だけが、空っぽの腹が鳴る音のように、いつまでもいつまでも響いていた。そして人々は、その音を「次なる恵みを約束する、聖なる囁き」と呼び、今日も丘の上で、ただひたすらに座して待っている。
樹の痛みは忘れ去られ、その場所には、希望という名の、永遠に続く干ばつが始まった。
(了)
千早亭小倉
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