これは、日記という名を借りた私の記憶。
某月某日
週末の運行。ボランティアさんが、小さな娘さんを連れてきてくれた。小学二年生だという。
ロマコメ号の中に響く、いつもより少しだけ甲高い声。それだけで、私が設定した「静かな読書の空間」という運行計画(ダイヤ)は、あっけなく書き換えられてしまう。子どもは、いつも私の秩序の外側からやってくる、予測不能な存在だ。
その子が、ここあん村の子どもたちと、あっという間に打ち解けていた。本を一緒に選んだり、車の外で笑いあったりしている。そのエネルギーの眩しさに、私は少し目を細めた。
図書館に戻り、ボランティアさんにも入ってもらい、活動の振り返りを行う。ボランティアさんから受け取るレポートに、小さな紙が添えられていた。
「私も書く」そう言って、娘さんが書いてくれたのだという。たどたどしい、けれど力強い文字が並んでいた。
「ここあん村の子どもたちとも、いっしょにたのしくあそべて、とてもたのしかったので、大人もみんなそんなくらい元気になってほしいな、とおもいました」
………。
その最後の一文を読んだ瞬間、息が、一瞬、止まった。
大人もみんな、そんなくらい元気になってほしいな。
あの純粋な目に、私たちはどう映っていたのだろう。集会所で静かにお茶を飲む大人たち。仮設の暮らしの中で、必死に日常の秩序を守ろうと、静かに本を借りていく、私たち。
ふと、サン=テグジュペリの『星の王子さま』を思い出した。
飛行士が描いた「ウワバミ」の絵を、大人たちは誰もが「帽子」だと言った。でも、王子さまだけは、それがウワバミだと知っていた。
私たち大人は、「大丈夫」という名の「帽子」を被って、平気なフリをしているだけなのかもしれない。
「あのこと」の後、多くの大人たちは「元気」かどうかではなく、「秩序を保てるか」どうかで生きてきた。でも、その子のまっすぐな目には、私たちの被った「帽子」の中身が、全部見えていたんだ。「元気じゃない」大人たちが。
私の仕事は、本を届けること。それは、失われた日常という秩序を、本という座標軸で取り戻すためだと思っていた。
でも、その子がくれたレポートは、私の分類棚のどこにも収まらない。
「元気になってほしい」。
それは、私の守ろうとしていた秩序よりも、ずっと根本的で、痛いほどの願いだった。
この小さなレポート用紙を、私はしばらく、手帳に挟んでおくことにする。分類不能な、大切な問いとして。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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