これは、日記という名を借りた私の記憶。
某月某日。
ロマコメ号の運行がない日は、本館のカウンター業務だ。
といっても、私たちの図書館は、まだ、図書館としての機能を完全には取り戻せていない。開架フロアだった場所は、閲覧席もすべて撤去され、全国から届いた支援物資の段ボールが、まるで新しい書架のように、無機質に、けれど無秩序に積まれている。
「あのこと」以来、ここは避難所となり、 今はかろうじて、予約本の受け渡しと返却業務だけを行う、巨大な倉庫のようになってしまった。蛍光灯の低い羽音だけが、やけにクリアに響いている。私の守りたい静謐な秩序とは、ほど遠い場所。
そこへ、中野楓子さんが来た。ここあん大学の学生さんで、いつもロマコメ号に来てくれる子だ。 彼女の快活な笑顔は、この淀んだ空気の中では眩しすぎる。
「こんにちは、ちなつさん! 予約してた本が準備できたってメールが来て」
端末を確認する。『ここあん村史・近代編』『克枯町商店街 激動の三十年』……。誰にも借りられず、埃をかぶったような古い郷土史の資料ばかり。
「失礼ですが、レポートか何かですか?」
私の問いかけに、彼女は「えへへ」と笑った。
「自主映画サークルなんです、私。最初は、それこそロマコメ号みたいなキラキラしたラブコメ撮ろうって言ってたんですけど ……でも、『アレ』で色々変わっちゃったから。今のこの村の景色とか、商店街の会長さんとか、ちゃんと『記録』しておきたいなって思って!」
――記録。
その言葉が、私の胸に重く突き刺さった。
「あのこと」が奪ったのは、建物や日常だけじゃない。私たちが守るべきだった、膨大な「記録」そのものだ。分類される前に泥水に飲まれ、瓦礫と化した歴史。私の仕事は、その失われた秩序を、一日一日、一冊一冊、必死で再構成することなのに。
「……少々、お待ちいただけますか」
私は、ほとんど無意識に、カウンターの内側にある司書専用の端末を操作していた。指が、勝手に動く。深層データベース。
あった。
『旧小名町 住民証言録』
『活田地区 災害前水路地図(手稿)』
『克枯町商店街 成立時店舗写真ネガフィルム』
彼女が本当に必要としている、生の「記録」。でも、全ての項目の右端に、冷たい赤色のフォントが並んでいた。
【禁帯出:要高島副館長承認】
閲覧室もいまは関係者以外の入室は禁じられている。高島副館長の、あの「秩序」を乱すものを許さない、神経質な声が蘇る。
『禁帯出本を貸し出し? 前例がないだろう』
『規則は規則。現場の判断で秩序を乱すな』
決めつけだというのはわかっている。副館長が何と言うかわからないのに。でも、耳に響く声は止められなかった。失礼な話だ。
ふと、ジョージ・オーウェルの『1984年』を思い出した。あの物語では、党が「過去」を支配し、都合の悪い「記録」は抹消される。高島副館長が守ろうとする完璧な「規則」は、まさにそれだ。そして、私は? 私は、真実の記録がどこにあるかを知りながら、それを「なかったこと」にする真理省の役人だ。
楓子さんは、オーウェルの主人公のように、失われた過去を無邪気に、いや彼女なりに真剣に「記録」しようとしている。でも、私は彼女に、「党」の公式見解(=貸出可能な、当たり障りのない資料)しか渡すことができない。
「……お待たせしてしまい、申し訳ありません」
私は、完璧な業務用の笑顔を顔に貼り付けた。
「いえいえ!」
「どうやら、私の勘違いだったようです。お探しの『記録』に該当しそうな資料は、やはり今お貸ししたものが全てですね」
「そうなんですね! わかりました、わざわざありがとうございます!」
彼女は、何も知らずに笑って帰っていった。
秩序は、守られた。高島副館長のルールは、守られた。でも、私は司書として、一番大切な「記録」を、それを求める手に渡すことができなかった。
業務終了のチャイムが鳴る。重たい足取りで、地下の閉架書庫へ向かう。ひやりとした、紙と埃の匂い。
ここは私の大切な場所。でも、今日は息苦しい。【禁帯出】という、赤色のシールが貼られた本が目の端に止まる。私は、同じシールの本だけを集め、棚の一番端に隔離するように並べ替えていた。
(何をしているんだろう、私)
この、分類不能な「罪悪感」を、私はどの棚に収めればいい?
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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