これは、日記という名を借りた私の記憶。
某月某日
「霧のところ」と呼ばれる場所へ、ドライバーのHさんとともに、ロマコメ号で向かった。南西の山あいに位置するそこは、数週間前に打ち合わせで訪れた時と同じく、今日もしっとりとした白い空気に包まれている。窓ガラスの曇りを、指の背で少しだけ拭ってみた。Hさんに、ゆっくりと車を進めてもらう。
「あのこと」の後、ここは深い霧が居座り、作物を育てられなくなった場所。そう聞かされた場所。人々が離れ、静まり返っていた村の端っこ。けれど、長い時間の後、その霧がようやく晴れてきて、三々五々と元の家へ戻る人たちが出てきた。
路肩に車を停めて外に出ると、湿った土の匂いと、長い間閉じられていた家が吐き出す、少し埃っぽい空気が混ざり合うのを感じた。手に金槌や鋸を持ち、家の傷んだところを直すのに精を出している人たちの姿が目に入った。その指先には、新しい木屑と、古い泥の汚れが混じってこびりついていることだろう。
一人の男性が、歪んでしまった縁側の柱を、何度も掌でさすっていた。
「アレの霧は、何もかもを湿らせて、重たくしていったからね」
彼は、笑ってそう言ったが、私やHさんの顔を見ることはなかった。この方にとって、本は二の次だろう。雨漏りを直し、乾いた家をもう一度自分たちの居場所として綴じ直すことで、精一杯のはずだ。そこへ本を差し出すのは、身勝手なことだろうか。
ふと、いぬいとみこさんの『木かげの家の小人たち』という本を思い出した。古い家に住む小さな住人たちと、人間との静かな関わりを描いた物語。見えないところで、誰かが場所を慈しみ、守り続けているという確かな予感。この霧の晴れた場所も、同じかもしれない。失われた時間を、栞を挟んでおいたページのように、もう一度ゆっくりと開き直しているのだ。
高島副館長は「愚直に、愚直に」と言った。その言葉は、まるで破れかけた本の背表紙を、透明なテープで一枚ずつ丁寧に直していくような、ひたむきな手触りを持っている。何が正しい答えなのかは、私の管理台帳には載っていない。けれど、彼らが家の柱を立て直すように、私は本という小さな目印を、この場所の日常にそっと置いていこうと思う。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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