移動図書館日記(86)

これは、日記という名を借りた、私の新しい「座標」の記録。

某月某日

今日の、この空気をなんと書き留めればいいのだろう。事務室の冷蔵庫のモーター音ではなく、人の声が建物の壁に跳ね返り、高い天井へと吸い込まれていく音。三年間、耳を塞ぐようにしてやり過ごしてきた、あの「静寂という名の不在」が、ようやく破られた。

――図書館建物 段階的開放・復興計画。

高島副館長の手元にある、あの冷徹なまでに整然とした工程表が、ついに私たちの足元に「現実」として降りてきた。

今日、そこに記された、「コミュニティ拠点」「一般図書フロア」の再興計画が、同時にその扉を開けたのだ。

振り返れば、この三年間は、まるで「NDC(日本十進分類法)」の棚がすべて倒れたまま、暗闇の中で一冊ずつ本を拾い上げるような、途方もないもどかしさの連続だった。 建物は支援物資の段ボールに占領され、私たちは図書館員というより、物流倉庫の管理人。ロマコメ号で村を回り、皆さんの笑顔に触れることは確かに喜びだったけれど、心のどこかでずっと、帰るべき「家」を失ったような喪失感を抱えていた。

「本は届けている。けれど、場所は提供できていない」

その欠落が、どれほど村民の方々の、そして私自身の心を削っていたことか。

今日、一階のラウンジに明かりが灯った瞬間、胸の奥が熱くなった。

ボストー区の仮設住宅から来られたおかあさんたちが、「あら、広くなったわね」と笑いながら、ポットの茶を啜っている。貸し会議室からは、復興に向けた話し合いの、熱を帯びた声が漏れてくる。ここはもう、ただの「物資の集積所」ではない。人々の営みが交差する、生きた「場所」になったのだ。

そして、二階。

立ち入り禁止のテープが剥がされ、あの歪んでいた書架が、真っ直ぐに背筋を伸ばして立っているのを見たとき、私は思わず指先で棚をなぞって歩いた。

震災の爪痕が生々しかった高島副館長のガラス張りの部屋も、今は安全な透明感を取り戻している。

そこには、私が守りたかった「秩序」があった。

実用書、文芸書、地域資料……。検索機を叩けば、本がどこにあるか分かる。手を伸ばせば、その物語に触れられる。当たり前のことが、これほどまでに奇跡のように感じられるなんて。

けれど、階段を見上げれば、三階と四階はまだ、暗がりのなかに沈んでいる。子どもたちの笑い声が響くはずの児童書フロアも、村を一望できるあの美しい展望カフェ「空の栞」も、まだ「未来」の項目のなかに封じられたままだ。全面開館までは、まだ数年単位の時間がかかる。補修工事の槌音は、これからも続くだろう。

それでも、今日という日は、私たちにとって決定的な「改行」になった。

これまでのように、移動図書館という「点」で寄り添うだけではなく、図書館という「面」で、村の皆さんの日常を支え始めることができる。

私は今、二階のカウンターに立っている。窓の外には、あの震災で生まれた湖が、皮肉なほど静かに光を反射している。三年前、あの巨大な無秩序に飲み込まれたあの日から、新しい分類棚を一段、また一段と、自分たちの手で組み上げた先の今を実感する。

焦ってはいけない。そう言い聞かせる、もうひとりの自分がいる。物語がまだ中盤であるように、この復興もまだ途上だ。でも、今日のこの「一歩」を、私は絶対に忘れない。明日の朝、ロマコメ号のエンジンをかけるとき、私は今日ここで見た、開架フロアを歩く人々の背中を思い出すだろう。

さあ、次はどの本を、誰の手に届けようか。ここあん村の「記憶」と「未来」を繋ぐ作業は、まだ始まったばかり。

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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