放課後の空気が澱む特別棟の三階。その最も奥に位置する「文芸部」のプレートが掲げられた部室のドアを、僕はいつも通り、一拍の間を置いてから開けた。案の定、というべきか。僕の主であり、この部の支配者である黒崎文部長は、窓際の席で頬杖をつき、琥珀色の液体が満たされたグラスを傾けていた。
「……黒崎部長。学校は禁酒です。それ、何度言ったら」
「ああ、来たのか。凡俗」
僕の顔をちらりと一瞥するなり、彼女は鼻を鳴らした。艶やかな黒髪がさらりと揺れ、その完璧な造形を持つ美貌が、言葉のナイフをより鋭利なものにしている。
「いいかね、新入り。これはウイスキーではない。麦茶だ。この国では、茶を飲む行為は古来より認められている。そして、チャールズ・ブコウスキーはこう言っている。『知的な人間は酒を飲む。他の連中はそれで満足する』とね。まあ、君のような存在には、麦茶すらもったいない代物だが」
「ブコウスキーはそんなこと言ってません。というか、その引用、明らかに間違ってますよ」
「揚げ足取りか。暇なのだな。その有り余る時間を、少しはマシな文章を書くことに使ったらどうだ? 先週君が提出したあの駄文――タイトルはなんだったかな、『異世界に転生したらカツカレーだったけど、実は蚊取り線香の生まれ変わりでハエも蚊も俺にベタ惚れ』だったか?」
「そんな長くないですし、内容も違います!」
彼女の記憶力は、悪意のある方向にのみ驚異的な性能を発揮する。僕が先週、なけなしの勇気を振り絞って提出した処女作のタイトルは、もっとこう、慎ましいものだったはずだ。
黒崎部長は、ふん、とグラスに残っていた麦茶をあおり、空になったグラスを机に置いた。カツン、と硬質な音がやけに大きく響く。
「で、今日は何を持ってきた? まさか手ぶらではあるまいな。私の貴重な放課後の時間を、君という無価値な存在の観測に費やしてやっているんだ。それ相応の対価を支払ってもらわねば、割に合わん」
切れ長の目が、僕の手元――A4用紙の束が挟まったクリアファイルを的確に捉える。僕は観念して、おずおずとそれを彼女の前に差し出した。
「……ショートショートを、三本ほど」
「ほう」
彼女はクリアファイルから原稿を抜き取ると、まるで汚物でも見るかのような目で一行目に視線を落とした。そして、数秒の沈黙。
「……はっ。なんだこれは」
吐き捨てられた言葉は、期待を裏切らない冷たさだ。
「一行目から、陳腐な比喩、無意味な装飾、読者の知性を侮辱するかのような安直な展開。君の脳みそは、一体どんな素材でできているんだ? 低反発ウレタンか何かか? 衝撃を全て吸収し、何も生み出さない」
「そこまで言わなくても……」
「事実を述べたまでだ。例えばこの一文。『空に浮かぶ雲は、まるで綿菓子のようだった』。小学生の絵日記か? 君が表現したいのは、空の情景か、それとも腹が減ったという生理的欲求か? どっちつかずの文章は、ただのノイズだ。読む価値もない」
彼女は原稿を指で弾き、机の上を滑らせて僕の前に戻した。それは、完全な拒絶の意思表示だった。いつも通りの光景だ。心がギシリと軋むのを感じる。
分かっている。彼女の言うことは、悔しいが的を射ている。僕の文章は、どこかで読んだことのある表現の寄せ集めで、僕自身の言葉ではない。それを、この人は一瞬で見抜いてしまう。
「……すみません」
「謝罪はいい。謝って文章が面白くなるなら、世界中の作家は全員土下座のプロになっている。それより、だ」
黒崎部長は、すっ、と立ち上がると、本棚に向かった。すらりとした背中が、夕陽に照らされてシルエットになる。僕よりも小柄なはずなのに、その背中は途方もなく大きく見えた。
やがて彼女は一冊の、くたびれた文庫本を手に戻ってきた。
「これを読め」
「……ブコウスキー、ですか」
「いかにも。今の君に必要なのは、小手先の技術論ではない。世界に対する、どうしようもない苛立ちと、それでも何かを渇望する魂の叫びだ。このろくでなしの言葉を、君のその空っぽの頭に叩き込め。まあ、君には百年早いかもしれんが」
そう言って、彼女は僕の机にその本を叩きつけた。『町でいちばんの美女』。それがタイトルだった。
「あの、これ……」
「貸してやる。ただし、次に会う時までに感想文を提出しろ。400字詰原稿用紙で最低10枚。一行でもつまらなかったら、この本は君の頭で叩き割ることになるから、そのつもりで」
それは、いつもの罵倒に満ちた命令だった。けれど。
ふと、彼女の横顔に目をやると、その唇の端が、ほんのわずかに、本当にコンマ数ミリだけ、吊り上がっているように見えた。気のせいかもしれない。いつものように、僕の脳が生み出した都合の良い幻覚かもしれない。
「……ありがとうございます」
「……勘違いするなよ、凡俗。私はただ、これ以上君の駄文で時間を浪費したくないだけだ。私のための、合理的な投資にすぎん」
黒崎部長はぷいと顔をそむけ、再び自分の席に戻ると、窓の外に視線を投げた。その耳が、心なしか赤く染まっているように見えたのは、きっと西日のせいだろう。
僕は、手元のくたびれた文庫本を強く握りしめた。
この人の下で文章を学ぶのは、精神がゴリゴリと削られるような苦痛を伴う。だが、不思議と、辞めたいと思ったことは一度もなかった。
(……感想文、10枚か)
無理難題だ。だが、やってやろうじゃないか。
このろくでなしで、最高に厄介な部長を、ほんの少しでも「退屈させない」ために。
僕は静かに一礼し、新たな課題と、万に一つの可能性を胸に、部室を後にした。ドアが閉まる直前、彼女のかすかな声が聞こえたような気がした。
「……明日も、待っているからな」
(第2話へ続く)
作・千早亭小倉
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