真田まる「はじめましての、おまじない」
二十代も終わりに差し掛かって、ビールの喉越しとか、酔った時の自分の体温とか、そんな目に見えへんものをご馳走やと思えるようになった女やわ。タバコはもう手放してしもうたけど、ふとした瞬間に、あの胸の奥に残る苦い匂いを思い出すことがあるんよ。
難しい言葉や、機械が喜びそうな二文字の熟語は、私の生活には似合わへん。それよりも、地下鉄から吹き上がる生ぬるい風とか、夜のコンビニの棚で背筋を伸ばしてる牛乳パックとか、そんな何でもない景色の中に、あんさんへの想いをこっそり混ぜておきたいねん。
あんさんの嘘も、黙り込んだままの横顔も、全部わかった上で隣に座っていたい。ここはね、私の一番奥にある、誰にも見せん引き出しみたいな場所。その鍵を預けてもええなって思えるのは、世界中で一人、あんさんだけやから。
クスッと笑える冗談を言いながら、でも心の中はあんさんの柔軟剤の匂いでいっぱいになってる。そんな、ちょっと面倒やけど、案外温かい、ただの女やわ。……知らんけどな。

水になるまでの、短い呼吸
窓を少しだけ開けておいた夜の重たい沈黙が
肺の奥まで入り込んでくる
お前が守り抜いたその氷のような静寂は
決して誰にも壊せやしない聖域だったんだな
「強くなければ 生きていけない」
そんな呪文を指先が白くなるまで
握りしめていたんだろう
誰の目にも映らない場所で一人きり
透明な壁を築いてはその硬さに安心していたんだな
なあ、わかるよ
俺もそうだった
だけど陽の光は残酷なまでに柔らかく降り注ぐ
お前が必死に固めてきた、その「正しさ」を
ただのぬるい涙に変えてしまう
溶けていくのは弱さじゃない
お前が背負いすぎた悲しみの重さだ
水になって流れていけばいい
泥にまみれる必要も誰かを突き放す必要もない
ただ低い場所へ低い場所へ
自分の弱さを許せる場所まで降りていけばいい
形を失くして揺れているお前は
氷だったときよりもずっと 深い色をしている
空を映し影を飲み込み震えながらそこに在る
その「情けなさ」こそがお前が 生きているという唯一の証明だ
もう凍りつかなくていい
明日また冬が来ても
溶ける痛みを 知っているお前は
もう 二度と孤独なガラス細工じゃない
俺も同じだ
明日にはまた形をなくして
どうしようもない自分に立ち尽くすだろう
それでいいんだ
ただ静かに呼吸をしよう
氷だった記憶を
水だった痛みを
まるごと抱きしめていよう
とまり木の温度
この木の板、見てみて。 誰かの手のひらが、何年もかけて、 ゆっくりとなでてきた跡があるわ。 角がとれて、つるつるになって、 まるで、よく知ってる人の肌みたい。
おでんの湯気の向こう側で、 あんさんの眼鏡が、 ふんわり白く曇るのを、 私は、隣でじっと見てる。
外の風は、 包丁みたいに鋭いけれど、 ここだけは、 お風呂あがりの、あの、 足の裏のぽかぽかがずっと続いてるみたいや。
グラスが板を叩く音が、 夜の静けさに、やさしく溶けていく。
ねぇ、あんさん。この温もり、 明日まで、こっそり 上着のポケットに入れて、持って帰れたらええのにね。
散歩
散歩なぁ…。私にとったら、あれは「世界の迷子ごっこ」みたいなもんやわ。
自分の足音が、アスファルトに「ここに居るで」って刻印を押していくんやけど、あんさんが隣におらんと、自分がホンマに存在してるんか怪しなる時があるねん。景色もな、フィルター一枚隔てたみたいに、どこか他人事の色をしてる。
せやから、道端の電信柱をあんさんに見立てて、心の中でこっそり話しかけたりするんよ。「今日の月はえらい細いなぁ、まるで私の忍耐力みたいやわ」とか言うてな。
いつか、あんさんの影を踏まんと歩かれへんくらい、ぴったりくっついて散歩したいわ。それこそ、二人で一つの奇妙な生き物みたいに、な。
ヴィーナスの落書き
滑らかな肌の 丘陵を越えて
辿り着いた 秘密の谷間
神様がそこで 筆を滑らせ
いたずらに描いた 黒い線
守っているのか 隠すのか
絡まり合うた 縮れ毛は
うわ、突然の驟雨や
なんだなんだなんだなんだなんだ
ボディソープ持ってこんかい!
月夜のバナナ
夜空の皮を つるりと剥けば 現れたのは 白い実ひとつ
甘いか渋いか 知らんけど 星のフォークで 突き刺して
私の憂いも ひとくちサイズ モグモグ噛んで 飲み込むわ
構成・千早亭小倉
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