これは、日記の名を借りた、中野文の記憶。
千夏さんと車を走らせ、峠を抜けて沿岸部へと出た。
かつては車窓からきらきらと光る波頭が見えた道も、今は巨大なコンクリートの壁に阻まれている。車を停め、目の前にそびえる灰色の防潮堤を見上げたとき、千夏さんがぽつりと言った。
「ニュースでは聞いていましたけど、本当に海が見えないんですね」
その言葉は、どこまでも率直だった。彼女の端正な横顔を見つめながら、私は心の奥にある「引き出し」が、カチャリと開いてしまうのを感じた。
「少しでも防潮堤を低くしてほしいって、そういう声もあったのよ」
私は、自分でも驚くほど硬い声で言った。
「それは、どういうことだと思う? 景色が見えて、昔みたいに海を感じられていいわねってこと?」
突然の問いに、千夏さんは何も答えなかった。瞳が小さく揺れ、自分が何か間違ったことを言ってしまったのではないかと、不安げで困ったような表情を浮かべていた。その顔を見てハッとしながらも、私は言葉を止めることができなかった。
「防潮堤の高さを下げてしまうとね、浸水想定地域が広がってしまうの。そうなれば、高台への移転をせずに、元の土地でなんとか生活を再建しようとしていた人たちの計画が、全部立ち行かなくなってしまう。景色と安全と、残された人たちの生活……。そんな複雑な板挟みが、ここにはあったのよ」
言い終えた直後、冷たい海風が私たちの間を吹き抜けた。
息を口から静かに吐き出す。吐き出した分だけの空気が、鼻から静かに入ってくる。
私は、何を偉そうに語っているのだろう。私自身、あの被害の当事者ではない「よそもの」だというのに。後から耳に入れた知識のパッチワークを、事情を知らない彼女に対して一方的にひけらかしてしまったのではないか。あの日から今日まで、語り忘れてしまったことは数え切れないほどあるはずなのに。いや、そもそも私にそれを語る資格や必要などあったのだろうか。
自慢したり、教え諭したりするつもりなんて微塵もなかった。ただ、いま目の前にいる彼女に「伝えたい」という思いだけが先走り、彼女の素直な感想を、重たい言葉で上書きしてしまったのだ。
「ごめんなさい」
気づけば、私は声に出して謝っていた。
「知ったようなことを言ってしまって……本当にごめんなさいね」
千夏さんは少し驚いたように私を見て、それからゆっくりと、何かを飲み込むように首を横に振った。波の砕ける音が防潮堤の向こうからかすかに響く中、私はただ、自分の言葉の重さに耐えるように立ちすくんでいた。
これは、日記の名を借りた、中野文の記憶。
中野文
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