【登場人物】
朝霧 沙緒:常磐荘に住む小説家。世界の不条理を気だるく愛するミューズ。
鴨下 栞:高校生の物語作家。大人たちの欺瞞を冷徹に観察する。
ダダダさん:相手の言葉を無条件に全肯定する不思議なおじさん。意味の消滅点。
【場面設定】
昼下がりの喫茶店「小古庵」。奥のテーブル席で沙緒と栞が向かい合っている。少し離れたカウンター席にはダダダさんが座っている。

栞:ダバダちゃん、コーヒー冷めてるよ。表面に薄い膜が張ってる。
(ダダダさんが栞のほうに振り返る。一瞬目が合うが、互いに何も言わない)
沙緒(指先でカップの縁をなぞって):いいの。この冷たさが、今の気分にちょうどいいから。というか、その……。
栞:でも、それじゃあせっかくの風味が台無しだし、なんか泥水を飲んでるみたいに見えるよ、ダバダちゃん。
(ダダダさんが栞のほうに振り返る。一瞬目が合うが、互いに何も言わない)
沙緒(顔をしかめて):だから、ちょっと、その変な呼び方、本当にやめてくれないかな。
栞:どうして。響きが軽くて可愛いのに。ダバダちゃん。
(ダダダさんが栞のほうに振り返る。一瞬目が合うが、互いに何も言わない)
沙緒:可愛さなんて求めてないの。私の名前は朝霧沙緒。そのダバダとかいう響きで呼ばれると、私が書いている小説まで、お湯を注げばできるみたいに軽くなる気がして嫌なのよ。
栞:インスタント、最近のは美味しいよ、ダバダちゃん。(ダダダさんとまた目が合い)あ、ごめんなさい、ダダダさん。
沙緒(目を丸くして):謝ってるのに、ダバダちゃんって、え、ちょっと、栞ちゃん、ダダダさんって言った? もう、意味不明。
栞:あ、違うの、ダバダちゃん。ダダダさんが見るから。
沙緒:え、どういうこと?(ダダダさんのほうを振り返る)あのおじさんが、ダダダさんなの?
栞:そうだよ。ここあん村の住人ならみんな知ってるよ。
沙織:知らないわよ、私は。その変な名前も、あなたが付けたの?
栞:違うよ。私が小さい頃から、ダダダさんはダダダさんだよ。
沙織:そもそもダダダって何よ。人の名前じゃないでしょう、それ。
ダダダさん:(沙緒の顔をじっと見つめて)ほんとだねー。
沙織:(一瞬、ビクッとして)自分で、ほんとだねーって言ってるし。 人じゃないってこと?
栞:ダダダさんは、ここあん村のブラックホール。大人の悩みとか、小難しい理屈を、全部吸い込んで消しちゃうんだよ。
沙緒:意味の消滅点ってこと。私が命を削って書いている文学的な絶望すらも、その一言で片付ける気かしら。勘弁して。
ダダダさん:ホントだねー。
沙緒:(消沈気味に)なんだか急に、自分のこだわりがひどく滑稽に思えてきた。
栞:だったもう、ダバダちゃんでいいよね。
ダダダさん:ほんとだねー。
沙緒:やっぱりイヤ。いまの「ほんとだねー」で。(席を立とうとする)もう帰る。
ダダダさん:なんか面白いこと言ってー。
栞:(沙緒に)言ってーだって。
沙緒:あ、別パターンもあるのね。(座り直す)もう好きに呼びなさい。
栞:やったー。(ダダダさんに)呼んでいいって。
沙緒:ダダダさんは、呼んでないでしょう?
(幕)
作・千早亭小倉
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