【登場人物】
岸辺 義道: 映画監督志望。斜に構えた批評家気質。
南 ちづる: 奔放で小悪魔的な元女子大生。
聖 林太郎: 大学院生。面倒見が良いが、どこか古風で世俗的。
【舞台設定】
ここあん大学早稲田サテライトキャンパス 地下ラウンジ。自主映画サークル「アーヌエヌエ」のメンバーが集まっている。

岸辺義道:(英語のペーパーバックを顔に近づけながら読んでいる)ふん、やはり言語の壁を越えると、解像度が下がるな。フィルムの粒子が消えて、ただのデジタルノイズになる(意味不明)。
南ちづる:(義道の膝に肘をついて)ねえ義道、さっきからその難しい顔、何かの演技? 眉間のシワが「僕は賢いです」って叫んでて、見てるこっちが恥ずかしくなるんだけど。
義道:演技じゃない。アーウィン・ショーを原文でなぞっているだけだ。和訳された瞬間に、ニューヨークの湿度は死ぬからな。
聖林太郎:しょーいうものなんでしょーか?
ちづる:寒い。
義道:まあ、舞台は冬みたいだからいいでしょー。
林太郎:いいでしょーじょあないよ、その本、いくらしたんだよ? 今月の部室代、まだ三千円足りてないっていうのに。
ちづる:滞納はいかんでしょー。って、それより、義道、本当にそれ読めてるの?
義道:冒頭だけだがな。
ちづる:なんだ。
林太郎:読めてないんか。
義道:ちゃうわ。冒頭だけでいい。名作だからな。冒頭の一文にすべてが詰まっている。いいか、「Fifth Avenue was shining in the sun when they left the Brevoort.」。
ちづる:……? で?
義道:(訳しだす)「五番街は晴れていた。彼らがそのブレブートを出たとき」。
ちづる:それじゃ、そこに何が詰まってるのか、わかんないよ。「そのブレブート」って何。ストリートバスケか何か?
義道:(意図せぬ質問の風)え、ブレブート?
林太郎:お前が言ったんだろ?
義道:まあ、文脈から言えば、スーパーマーケットか何かだろうな。俺には見える。日曜の朝、昨夜の残響を振り払うために、彼らは特売のパンか何かを買いに出た。支払いを済ませて一歩外に出た瞬間の、眩しすぎる現実への絶望。それがこの物語の「業」だ。
林太郎:(義道からペーパーバックを奪い、写メする)「業」ねえ……。
義道:調べなくていい。「業」は「感じる」ものだ。
林太郎:あ、出た。アーウィン・ショー「夏服を着た女たち」。ええと、「ホテル・ブレヴォート」。かつてニューヨークにあった、文化人御用達の超高級ホテルだそうだ。一階には有名なカフェがあって、セレブたちが朝食を食べていたらしい。
ちづる:(吹き出す)あはは! スーパーの特売パンじゃなくて、ホテルの優雅な朝食だったんじゃないの? 義道、あなたの「絶望」って、バゲットの食べこぼしか何かレベル。
義道:スポットの機能は問題ではない。彼らが「そこから出た」という不可逆的な移動こそが。
ちづる:不可逆的なのは、あなたの間違えのほうだから。格好つけて英語で読んで、中身はスーパーの買い出しだと思ってたなんて、最高に「五番街」だわ。
義道:意味わからん。
林太郎:ま、ホテルだろうがスーパーだろうが、今の俺たちには縁のない場所だな。おい義道、その本を古本屋に売ったら、いくらになる? 電気代の足しにしたいんだが。
義道:芸術を金にするような真似ができるか。
ちづる:一行目でつまづいてるくせに。
義道:そうだよ。でも、芸術ってそういうものだろう?
ポンコツAIスピーカー:(卓上で明滅する) 検索結果を補足します。「ブレヴォート」は1950年代に取り壊され、その後、高級アパートメントとして再生されました。現在のギドーの銀行残高も、同じように再生が必要です。至急、入金を。至急、入金を。
ちづる:あら、AIまであなたにいま必要な「業」を指摘してるわよ。ねえ、今の気持ちを映画のタイトルにするなら何?
林太郎:「五番街の銀行口座」とかか?
義道:黙れ。俺は今、このページの行間に潜む、名前のない虚無と対話しているんだ。
ちづる:まだ1行しか読んでないんでしょう?
(地下室には、湿った空気と虚勢だけが溜まっていく)
(幕)
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