【登場人物】
海ママ:飲み屋「海」のママ。本名不詳で、妖艶な微笑みと甘い呼気で客を魅了する静かな観察者。
岸辺 義道:映画監督を目指す22歳。斜に構えているが、美しい映像を撮る非凡な才能を持つ。
【場面設定】
「海」の店内。客の孤独や見栄を「妖艶な放置」で吸い込む空間。

岸辺義道:絞りを開けすぎたかな。店の奥、けっこう暗いな。(カメラをいじる)
海ママ:(無言で宙を見つめている)
義道:まあええか。そのままで。瞬きすら忘れてるその感じ、すごくいいわ。
海ママ:ねえ。そこのスマホで、ベートーヴェンの運命、流してくれない。
義道:運命? なるほど。この退廃的な空気に重いクラシックを足すんやな。完璧な演出やわ。(スマホを操作する)
海ママ:音、もうちょっと大きくして。
義道:わかった。(音楽が鳴る)……ほら、顔つきが変わった。なんか、抱え込んでる哀しみみたいなのがにじみ出てる。
海ママ:(じっと宙を睨みつけたまま、息を呑む)
義道:そう、そのまま。最高やわ。失われたものへのどうしようもない哀愁を感じる。映画の歴史に残る絵が撮れるで。
海ママ:あーあ。泣けちゃうね。(大きくため息をつく)
義道:今の表情、完璧やわ。圧倒された。
海ママ:頭の中の銀色の玉、またはじかれちゃった。
義道:え。銀色の玉って何。
海ママ:あと少しで、三つの数字がピタリと揃うところだったのに。頭の中で、いい線いってたんだよ。
義道:……もしかして、その妄想してたんか。
海ママ:『運命』のイントロが鳴ると、玉の軌道が変わる気がするんだよね。笑っちゃうね。
義道:くだらない。(乱暴にカメラをバッグにしまう)しめて。
海ママ:機嫌悪くしないでよ。それよりさ、あんた、財布にいくら入ってる。
義道:はあ。現金なんて千円くらいしか入ってないわ。
海ママ:あのさ。どんなに若くても、男が飲み屋に行くときは3万円は最低財布に入れておきなさい。
義道:なんの話やねん。スマホ決済しかないわ、そんな現金。で、いくら?
海ママ:1800万円。
義道:安っ。
(幕)
作・千早亭小倉
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