【登場人物】
黒崎文:ここあん高校の文芸部部長。文学に魂を求める至上主義者。自身の未熟さを高尚な表現で修飾しようとする癖がある。三島文学に崇敬の念を抱いている。
矢尾リリカ:同校の生徒。冷徹でシニカルな観察者。文の良き理解者だが、容赦なく現実を突きつける。
【場面設定】
雨が降りしきる、ここあん湖畔。傘もささずに湖面の設備を見つめて立ち尽くす文と、たまたま通りかかったリリカ。

矢尾リリカ:風邪ひくよ。傘、入りな。
黒崎文:いらない。私は今、境界線を溶かしているの。
リリカ:制服と肌の境界線? 雨で張り付いて透けているのが現実だけど。見ているこっちの体温まで下がりそう。
文:違う。私と、あの噴水との境界線。今、私の涙と噴水の飛沫が完全に一体化しているの。
リリカ:ここあん湖に噴水なんて……あれ、工業用の曝気装置じゃない。水質浄化のための。
文:噴水よ。誰が何と言おうと。私の悲哀に寄り添って、空に向かって涙を逆流させているの。
リリカ:役所のタイマー制御でモーターが回っているだけだよ。雨の日にわざわざ湖水をかき回すなんて、電気代の無駄じゃない? で、なんで泣いているの。
文:泣いてない。飛沫が目に入っただけ。
リリカ:あ、もしかして、三島由紀夫の『雨の中の噴水』?
文:『雨のなかの噴水』ね。「なか」はひらがな。
リリカ:なんで私が言ったのが漢字の「中」だってわかるのよ。
文:わかるにきまってるじゃない。
リリカ:(お手上げ、しつつ)あなた、あの傑作、本当に好きだよね。
文:自分の書いた原稿が、急にただのインクの染みに見えて、息ができなくなって……。だから(きっと空をにらみつけて)あの物語のように、この噴水と悲しみの深さを競っているの。
リリカ:なるほど、文学的挫折。でもあれって、主人公が悲劇のヒーロー気取りで大見得を切ったつもりが、相手には一番肝心な言葉が全く届いていなかったっていう、最高に愛らしい勘違いの話じゃなかった?
文:もちろん、わかっている。(リリカを少し見て)それでも、絶望なの。
リリカ:それにあの作品、噴水を見上げていた主人公が、ふと空から降る「雨」の……無差別さに気づくところが重要なんじゃないの。どんなに気高く水を吹き上げても、上から降ってくる雨の前では、自分も汚れたコンクリートの床も、同じただ濡れるだけの無抵抗な表面でしかないって気づく。あなたのその特別な文学的挫折も、ただの雨水で濡れているだけの物理現象だよ。
文:それを言われると、返す言葉が。
リリカ:ほら、鼻が真っ赤。もう十分滑稽じゃないかな。帰ろう。
文:ハックション!
リリカ:見事なオマージュ。
文:これは、気温の低下による一時的な粘膜の反射で。ただの生理現象。
リリカ:はいはい。早く帰って、着替えて温かい麦茶でも飲みなよ。
(リリカ、強引に文を傘に入れる)
文:少し、狭い。
リリカ:我慢しなよ。現実なんてそんなものだから。
(了)
作・千早亭小倉
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